カテゴリ: 600回〜

邱永漢さんの著作に
社長さんたちの処世術をまとめた
『社長学入門』という本があります。

邱さんが多くの社長さんたちを観察し、
「社長さんの交際術はかくあるのがいい」
と書かれた本ですが、この中で、
妻や子供との付き合いが大切ですと、
ページを割いています。

「妻の役割は
世渡りの途次で引き立ててくれた恩人にも
劣らぬほど、大きなものである。
ただ、妻は家族の一員であり、
うちわの人だから、つきあうもつきあわないもないよ
と言われるかもしれない。

しかし、『合わせものは離れもの』といえば
『親子は他人の始まり』ともいって、
妻や子供をどうつきあうかは、ゆるがせにできない
ことの一つである。」

といって、世の忙しい社長さんが
奥さんや子供さんとのつきあいを
ゆるがせにしていることを警告し
その重要性を説いています。

「現に私だって、月の半分は地方の講演旅行に
出かけているし、東京にいるときだって、
家で食事をしないほうが多い。

ところが経済評論家の高島陽氏は、
足で歩いて自分の理論を実地に組み立てる
ことをモットーにしているから
私よりももっとひどい不在地主で、
一年のうちに家にいる日数は1ヶ月もあるかどうか。
一年間に150とか60とかの年を訪れたというから、
いつ電話をしても家にいたためしがない。

『そんなに家を留守にしておいて、
家族から文句がでないのですか』
と私がきいたら、高島さんはニッコリ笑って
『コツがあるんですよ』
と言う。」(『社長学入門』。昭和49年)

というように、邱さんが
家族との交際の秘訣を教えてもらいたい
と迫っていった先が高島陽さんです。
この続きは次回にご紹介します。

前回、渡部昇一さんが『人間らしさの構造』という本で
高島陽さんが提唱する「生きがい論」にふれて
目の覚めるような思いをしたことを伝える
渡部さんの文章を紹介しました。

それに続く渡部さんの文章を
引用させていただきます。
「この高島さんが、サラリーマンに
面白い忠告をしているのだ。
普通のサラリーマンが一生かかって働くと、
5千万から1億円くらいの収入がある。
それを毎月、給料としてもらうと、それから、
先ず下宿代とか食費とか洋服代とかいう生活費を払う。

そして小遣いとして月、2,3千円使うと
いうのが普通の人ではないだろうか。
このような発想法では、一生働いて
総計5千万なり1億円なり働いたとしても
『いったいおれはあの1億円を
どこに使ってしまったのだろう』
ということになりかねない。

これでは何とも情けない、あわれであるので、
高島さんは、収入が多かろうと少なかろうと、
まず最初に『生きがい費』として差し引いて生きる
という生き方を勧めておられる。

そのために日常の生活は切りつめてもよい。
『耐えられないのは、ただ食べて着て寝るだけで、
あたら人生を終わってしまうことだ』
と言い切っておられる。
私は、この言葉を読んだとき
目の前に電光が走るような気がした。」
(渡部昇一「『人間らしさ』の構造」。昭和47年)

高島さんは昭和39年に読売新聞社から
『サラリーマンは日歩三銭』を
昭和42年に東都書房から『この手で行こう』、
講談社から『高島陽の損得学校』を出版されています。
渡部さんはこの三冊のいずれかをお読みになって、
高島さんの生きがい重視の生き方にふれたのだと思います。

たまたま私はこの3冊をこれまで
手にすることができなかったのですが、
最近のこと、国会図書館に保存されていることを
確認しましたのでいずれで向いて、
読ませていただこうと考えています。

私は邱永漢さんの本は1,2冊を除いて全ての本を
もっていますが、邱さんの場合と同じように、
その方の本はほぼ全て持っているという方が数人いらっしゃいます。

その一人が上智大学名誉教授の渡部昇一さんです。
この渡部さんが昭和47年に出版された著作に
『人間らしさの構造』という「生きがい」のことを
取り上げた本がありますが、ページをくって驚きました。

冒頭で渡部さんは高島陽さんの著作を紹介し、
高島さんの生き方に目を見張らされたと
お書きになっているのです。

「私の場合、鮮烈な形の『生きがい論』に出合ったのは、
高島さんのものを読んだときである。
今から5,6年前(昭和41,2年)のことで、その頃はまだ
『生きがい』ということはそんなに問題になっていなかったと思う。
高島さんという人は肺結核で7年間
何度も喀血したことがあるそうだ。
特に軍隊の病院にいたときはとても助からないと思った、
と言っておられる。

そのほか、山の湖に入って自殺しようとしたり、
亜ヒ酸を飲んで死のうとしたり、山奥の高圧線の鉄塔から
飛び降りて死のうとしたり、数回の自殺未遂の経験があるらしい。

そういう生死の間を何度かさまよってから、
『結局、生きている理由はないかもしれないが、
死ななくてはならない理由もないと決めて、
当分生きることにした』とのことである。

それからの高島さんの活動はまことにすばらしい。
証券会社という生き馬の眼を抜くような
苛烈な競争社会に入って、抜群の成績を上げ、
まもなくその会社の取締役になる。
さらにその後は一本立ちの経済評論家として
特色のある活動をしておられるのである。」
(『人間らしさの構造』。昭和47年。)

私はこの文章をはじめて読んだとき、
高島陽さんが若い頃、自殺を思いつめたことが
あったとことは知りませんでした。
この渡部さんの文章を読んで、
邱永漢さんの著作に、親しい間柄の友人として
紹介されている高島さんという人は
たいへんな辛酸をなめてこられた
偉い人なんだという印象を深めました。

でも、この一連の連載をお読みの方にとっては、
渡部さんのご評価はスンナリ
受け止められるのではないかと思います。

昭和39年、41歳の時経済評論家として
独立した高島陽さんはその後、
どのような生活をおくられたのでしょうか。

記録を辿ると、高島さんは
昭和37年、取締役時代、
論争社から出版した『現代の兵法』に続き
昭和39年に読売新聞社から
『サラリーマンは日歩三銭』
を出版しています。

続いて、昭和42年には
東都書房から『この手で行こう』、
講談社から『高島陽の損得学校』の
二冊を出版されあした。

そして昭和44年4月から
NHK『新経済読本』の司会を
つとめられます。

また著作活動は快調で
昭和45年に日本経済新聞社から
『先見術―二歩先を見る眼』を
文芸春秋社から
『一億総素人時代―金儲けのラストチャンス』
昭和48年には日本経済新聞社から
『お先に失礼』、
昭和54年には日本経済新聞社から
『大変の時が来た―どうなる80年代の日本』
を出版されました。

私の場合、この『大変の時が来た―どうなる80年代の日本』が
最初に手にした高島さんの著作ですが、
その本の著作紹介には次のような記述があります。

「一年のうちの300日、
東京を離れ各地を飛び回っている。
カナダのオイルサンド地帯から、
札幌の松山千春のコンサートまで、
世の人の注目するところには必ず足をのばし、
まず自らの目で確かめるということを怠らない。
本書にもそうして得た成果が随所に顔をのぞかせている。
足で仕入れた材料を、証券会社の株式部長時代に鍛えた
先見力で料理するところに、
このマネーメーキングの神様の
余人に代えがたい魅力があるといえよう」。

経済評論家としての高島さんの活動を
手近に知ることができる紹介文だと思います。

東京オリンピックが開催されたのは
昭和39年のことですが、その年、41歳であった
高島陽さんは、大商証券の取締役を辞任しました。
高島さんはその後、当時のことを振り返り、
次のように書いておられます。

「私は昭和34年から39年までの5年間、
資本金40億円の会社の取締役をつとめたことがあるが、
一生のうちで、あの時が一番不安だった。

何しろ病気で会社を休もうと、
少しくらい仕事をなまけようと、
毎月25日には必ずかねをくれるのだから、
とても不安だった。

『これでは今におれはだめになっちゃいんじゃないか。
おれは一生こんな生活から抜けられないんじゃないか』
と、心配でたまらなかった。
昭和39年の11月に会社をやめることができた時、
ホッとしたものだ。

常に不安を排除する。
これは当然のことだろう。
むしろ、大切な本能の一つと思う。
といって、安定を維持しようと考えるのは得策ではない。
もともとこの世に不安定はあっても、
安定は存在しないからだ。
(もし、安定があったら、神様も失業してしまう。
この点、神様は抜け目ない)。

商売するにも、株式也投資をするにも、
ここのところをよく頭に入れておくことだ。
これが出来たら、七分通り成功したものと
言ってよいだろう。

少なくとも、百%他人や自分自身を信用して
失敗するようなことは避けられる。
とにかく、どうせ、存在しない安定を求める暇があったら、
少しでも、自分の周囲にある不安を除くことが賢明だと思う。」
(『1億総素人時代』)

私なども不安定な要素は極力除こうとします。
しかし、世の中は変動極まりないものですから
この不安定なるものといつも
付き合っていかなければなりません。
そう思う人間にとって、上に述べられた高島さんの考えは
生きていく上で大きな指針になるように思います。

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