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ベトナムを訪れて誰もが驚くのは
オートバイの群れがまるで川が流れる様に
走る光景です。

この光景を見て驚かない人はいないですが、
ベトナムの会社を訪れて、誰もが驚くことがあります。
経営者もスタッフもみな若いということです。


私は数多くの会社を訪ねて、毎回、
このことを感じます。 

ベトナムの成功した会社のトップは
持ち株が増えて金持ちになり、
自家用の飛行機を買った人たちは富豪と言われます。

私たちが富豪と言われて思い描くのは
60歳とか70歳の年寄りですが、
実際に私たちが面談する富豪は50歳前後の
若い経営者です。

また部門経営者たちも若くて、
あるとき私は大学のサークル活動の中に
紛れ込んだのかと思いました。

こういう具合にベトナムの経営に
従事している人たちはフレッシュです。 

今日は大阪市の中央公会堂で株の勉強です。
大阪市の中央公会堂は歴史的な建物で、
そこで勉強できるだけで十分楽しいのですが、
今日のセミナーには大阪、兵庫、滋賀、和歌山、愛媛、高知
各県から友人たちが駆けつけてくれます。

徳島の友人もご参加いただく予定で、残念ながら
直前にご友人が亡くなられ、再会は次回になりましたが、
この方にお会いしたのは私がジャパン証券のご要請を受け、
東京・新橋の航空会館でベトナム株セミナーを開いたときでした。


このとき、ジャパン証券の初代社長の横山さん、
二代目の社長になる平本さん、アナリストの竹内さんが
そろってご出席され、とくに横山さんから、
サクラ証券(現在のジャパン証券)が誕生するまでの秘話を
ご披露いただき、邱永漢先生の格別の働きかけで生まれたことを
お話いただき、また平本社長から同社発展に向けての抱負が
語られました。 

このセミナーあと懇親会をひらき、
会場近くのレストランで 
楽しい時間を過ごさせていただきました。
これが機縁になって、翌年の3月、東北大震災の直後でしたが、
ジャパン証券さんにご案内いただいて、ハノイに拠点を置く
ベトコンバンクとか
ホアパット鉄鋼グループとか、
ビンコム不動産(現在のビングループ)
などの各社を
一緒に訪問しました。

あれから、早いもので一年半の年月が経ちました。
この間、ホーチミンに2度行き、ハノイにも
再度訪れ、私のベトナム体験は膨らました。
こうした体験の一端をお伝えできるのは
たいへんありがたく、また嬉しいことです。 

 
 


前回引用した『死に方、辞め方、別れ方』のなかの一節
「自分の葬式はこうやってほしい」の文章の続きです。 

「第三に墓をつくる場合も、『邱永漢之墓』というのがよい。
家族をひっくるめた『邱家之墓』でもかまわないのだが、
何しろ、世の中には好事家というのがいて、
私の墓をわざわざ見に来る人もあるだろう。
そういう人の好奇心を満足させるために、
私の名前がないと困るのである。
(略)
さて坊さんに来てもらわないとすれば、
あとは音をどうするかが一番大問題になる。

第四に、お経や木魚のない葬式だから、
参列者をセンチメンタルにするために
ふだん私の愛唱してきた歌のうちで、
葬式にふさわしいものをテープで流してもらう。

私がかねてから葬式に一番ふさわしい歌と思っているのは、
谷村新司歌うところの『昴』であって、
メロディーはもとよりのこと
『我は行く蒼白き頬のままで』とか
『ああ、いつの日か、誰かがこの道を』
などといった文句は、
如何にも死を象徴するセリフではないか。

私があまりそう言うので、女房は
『心配しないでも、葬式の時には、
ちゃんと谷村さんに歌ってもらうようにしますから』
と冗談を言っているが、
まさか死んだ時だけきてもらうこともできないから、
生きているうちに知り合いになっておきたいと思っている。

谷村さんの歌のなかでは『天狼』というのがもう一曲、
ほかに美空ひばりの『悲しい酒』、『影をしたいて』、
松尾和子の『誰よりも君を愛す』、佐川満男の『無情の夢』、
西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』、『夜が切ない』、
松山恵子の『別れの入場券』、梓みちよの『二人でお酒を』、
越路吹雪の『ラストダンスは私に』、『イカルスの星』
中国の唄では『情人的眼涙』『漁光曲』『何日君再来』『抉擇』、
そして自分が作詞をした『恋のインターチェンジ』
『南国の花』『溺愛』も中に入れてもらうとしようか。

これらをエンドレス・テープでやってもらえば、
参列者が絶えるまで鳴り続けてくれるだろう。
あとは季節の花を一本ずつ棺桶お前にあげてくれれば、
それで私の葬式はおしまいにしてもらいたい」
(自分の葬式はこうやってほしい」
『死に方、辞め方、別れ方』に収録)

こうしたご生前の”注文”を受け、
谷村新司さんの昴の曲が流れるなか、
参列者が一本の白い花を献花する形で
お別れ会が行われたわけです。 

 

私が邱永漢先生の本を読むようになってから、
4年目の昭和58年に 『死に方、辞め方、別れ方』
という意表をつくようなタイトルの本が刊行されました。 

先生59歳のときの作品ですが、
この本で「自分の葬式はこうあってほしい」
と注文をつけ、この注文が今回の告別式に活かされています。
以下引用させていただきます。 

「人のことはさしおいて、自分の葬式に対する注文を
ここに書いても、皆さんのご迷惑にはならないだろう。
私は想像力の乏しい人間だから、人の世に行きながら、
幽明境を異にするような夢うつつの生活はできない。
したがって、生きているうちに葬式を出したり、
死なないうちから墓を出したりすることはできない。
しかし、未来を見透かし、準備しておくことについては、
割合にたけた方だから、葬式はこうやってもらいたいという
注文ならできないことはない。

先ず第一に自分の葬式に坊さんは要らない。
ふだん、付き合いがないのに、
死んだ途端に坊さんに押しかけられてはたまらないないし、
しかも何を歌っているのかまったく見当もつかない
お経を聞かされたのでは、
死んでも耳を塞がなければならなくなる。

第二に戒名は不要である。
戒名にもランクがあって、
ランクの高い戒名を得ようとすると、
包み紙も莫大になると聞いているが、
それはお寺の坊さんの商売にすぎない。
高いランクの戒名を頂戴したから、
死人としてのランクが上がるわけではないし、
人にお金をだまし取られたときほど無念なことはないと、
ふだんから思っている者が、
死んだ途端に、自分の死をダシにして
遺族がお金をむしり取られるのを見るのでは
それこそ死ぬに死にきれないであろう。

だから、もし戒名がなければ成仏できないのなら、
自分の戒名は自分でつけておきたい。
私の場合は、先見性を発揮することに
無上の喜びを感じていきてきたのだから、
先見院というのがよいだろう。

また、これは良いと思うアイデアが浮かぶと、
それを実行に移さなければ気がすまない方だから、
力行居士とでもいうのがふさわしいであろう。
こう書いただけで、自分の戒名は
もう出来上がってしまったようなものだから、
どの字にどれだけの値うちがあるかこだわらなければ、
これで100万円ぐらいは節約になったのではあるまいか。」
(「自分の葬式はこうやってほしい」
『死に方、辞め方、別れ方』に収録)

 

去る7月2日、東京の新装なったパレスホテルで

開かれた邱永漢先生のお別れ会のときの様子を伝える

台湾の”今週刊”誌を送っていただきました。

 

記事のタイトルは”邱永漢 書生本色走過人生風雨”です。

「邱永漢―書生気質で嵐のような生涯を走った人」

とでもいう意味でしょうか。

 

お別れ会の時の様子を伝える写真3枚が掲載され、

先生が世に送った460冊強の書籍などが紹介されています。

 

そして、ユニクロ創業者の柳井正さんが弔辞を読まれたこと、

少年期、青年期、成人期など各年代ごとの活躍を

伝える写真が映し出されたこと、

邱先生がモットーとされた「一生書生」や

「節倹勤勉奇策」が紹介されたこと、

さらに、献花のあとの小宴会場で、

作家の林真理子さんや沢木耕太郎さんが

スピーチされたこと、

そして谷村新司さんの「昴」の大合唱で

閉幕になったことが紹介されています。

 

また邱先生には『死に方 辞め方 別れ方』

という著作があり、著者が

「自分の葬式はこうしてほしい」と述べたことの

内容も紹介されています。

 

この記事をお書きになった作者は

邱先生がお亡くなった直後の邱永漢特集で

『賺錢之神』邱永漢89年的人生智慧

(「『金儲けの神様』 邱永漢89年の人生の知恵」)

をまとめられた孫蓉萍さんです。

 

孫蓉萍さんは台湾の女子校、大学を経て

日本の筑波大学の大学院で学ばれた才媛です。

 

この記事の末尾に、かつて邱先生の指導を受けられたと

伺っている”今週間”誌社長の謝金河さんの文章も掲載されています。

 

孫さんが書いてくださった二つの記事は

日本の邱ファンにとってもとても大きなプレゼントです。

早速、今週末、名古屋と大阪でセミナーをひらきますので、

参加してくれる友人たちに紹介させていただきます。

 

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