カテゴリ: 1600回~

私たちが泊まった国民宿舎 紀州路みなべが
立っている岬が植田崎(はねたさき)で、
窓から見える砂浜が植田浜(はねたはま)
と言われるところです。

ここに見える植田(はねた)というところが
南部町の一つの区で、浜野征三の父親や
妻の母が育ったところです。

この二人の父親、言い換えれば
征三さんや私の妻の祖父が
浜野大吉(はまのだいきち)という人です。

この大吉じいさんは75歳の頃
町の要請を受けて、取材活動をはじめ
現地にでかけたり、古老や学者を尋ねたり
また隣町田辺市の図書館や
3
時間かかった和歌山県立図書館にも
何度も通いました。

そして、5年の歳月をへて、80歳の時に、
郷里、植田区の歴史、産業、衣食住、風俗習慣、
文教、行事、宗教、土木、気質、物価など
についての膨大な原稿ができあがりました


そして、この時、じいさんを手伝ったのが、、
多摩美術大学に通っていたわが妻で
じいさんに言われるままにあちこちに出かけ
たくさんの挿絵を描きました。

こうしてページ数にして443にも及ぶ
活版刷りの大著『植田区誌』が出来上がり、
わが家でもこの一冊を大切に保管しています。

いまこの本の表紙をくると、

じいさんの筆で縦書きで次のように書かれています。

 

「贈与 孫 熹美殿

昭和378

祖父 大吉」

熹美(きみ)というのが妻の名前で、
この本はわが家で一番のお宝です。

妻のいとこで、妻の母の実家を継いでいる
浜野征三さんのご自宅で、
100
年前に亡くなった童子の弔いに同席したあと
その日の宿として予約いただいていた
国民宿舎 紀州路 みなべに送っていただきました。

この宿舎は南部湾に突き出た岩の上に
築かれ、目の前に鹿島(かしま)という
小さな島が見えます。

妻は3歳から8歳くらいまでの間
この島を見ながら生活していており、
妻の小さかった頃の話には
この鹿島の話がよく出てきます。

夕食をいただいたあと、
温泉風呂に行くとこの鹿島のことを
歌った歌が暖簾に書き込まれていました。

「三名部(みなべ)の浦塩な満そね
鹿島なる釣する海人を見てかへりこむ」

後で宿の人に聞くと
万葉集に収められている歌で
「南部の浦の潮いっこうに満ちて来ない、
鹿島で釣りしてる海人を見てから帰って来た」
と言った意味で、701年(大宝元年)、
文武天皇(もんむてんのう)が旅行した際に、
お伴の者が詠んだ歌だそうです。

 

この歌のことを妻に伝えると
昔、大地震で津波が南部に押し寄せた時、
鹿島のところで津波が割れ、
南部の人は災害から免れたのだという
言い伝えの話を教えてくれました。

さて、宿の前は海岸です。
朝、食事をいただいたあと、海岸に出ました。
小雨が降っていましたが、
鹿島を背景にして写真をとったあと

妻は海岸に打ち寄せられた貝殻拾いに興じました。
昔もこうして遊んだのでしょう。

貝の種類はいろいろだけど、
宝貝という貝は昔と同じように
綺麗だったと語りました。

“南高梅”の本場、南部(みなべ)の梅林を眺め、
また梅のPRセンター、
「道の駅みなべうめ振興館」
を見学したあと、私たちは今回お世話になっている
妻のいとこ、浜野征三さんのご自宅かれました。

 

このお宅は102数年前に、
征三さんや私の妻たちの共通の祖父にあたる
浜野大吉(はまのだいきち)さんが建造し
 今に至っているのだそうです。

征三さんの父君と妻の母は
兄妹の間柄で、征三さんの父親は
3
人の子供を遺しながら、
大東亜戦争のために亡くなっています。

他方、妻の母は健在で、
102
歳を数えていますが、
この妻の母がちょうど生まれた年に
大吉じいさんがこの家を建造したのので
この家の築後の年数は妻の母の年齢と
同じなの築後の年数を覚えやすいのだそうです。

さて、伺えば、妻の母のあとに生まれ、
すぐに亡くなった童子がいて、

 亡くなってから100年になり、これから
お寺の住職さんに来てもらて、弔いをするので
私たちも同席するようにといのことでした。

100回忌と聞いて驚きましたが、
時がたっても、節目節目の時がきたら、
きちんと弔うという風習が守られていることに
敬意を表しました。

 

仏壇が大きくかつ立派で
ふすまには由緒ありげな漢字が書かれ、
床の間にはき大きなお花が
れいに飾られていました。

そうした厳粛な雰囲気のもとで、
住職さんののお経を聞きながら、
神妙に100年忌に参加させていただきました。

妻のいとこ、浜野征三さん、智須子さんご夫妻に
車で案内いただき、よく整備された山道を通り
南部(みなべ)の山に入り、
無数といっていいほどに植えられている
梅林を見せていただきました。

なだらかな山の中腹で
車を降り、周囲を眺めました。
見渡す限り梅林が続いています。

この南部の梅林は、昔から
「一目百万、香り十里」
と言われているそうですが、

言いえて妙という感じです。

 

さて、この地の梅は“南高梅”という
名前で販売されていて、
“南高梅”の“南”は“南部”のことでしょうが、
“高”といういう意味なのでしょうか。
浜野さんが教えてくださいました。

「“高”は“南部高校”の“高”から来ているんです。
南部の梅を事業として始めたのは
内中源蔵(うちなかげんぞう)という人です。

この内中さんに習って
梅栽培の仕事を始めた高田貞楠(たかださだぐす)さんが
果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けました。

昭和25年に優良品種を選ぶ会が発足し、
5
年にわって調べた結果、高田梅が
最優良品種に選ばれたんです。

この調査に尽力したのが南部高校の先生だったので
敬意を表して
南高梅と名付けられたのです」

「そういう歴史が展示されているところが
近くにありませんか」とうかがうと、
智須子夫人が、ご主人に

「谷口にそういうところがあるよ」

と言って下さり、おかげで
道の駅みなべうめ振興館

を訪ねることができました。

この振興館は“南高梅”のPRセンターで
その由来はもとより、南部町の歴史、
梅の効用などをビジュアルに展示していて
面白く、勉強になりました。

南紀、白浜に近い南部(みなべ)駅で
私たちを迎えてくださたのは
妻の母の実家をついでおられる
浜野征三・智須子(はまのせいぞう、ちずこ)さんご夫妻です。

 

征三さんのお父様と私の妻の母親とは

兄弟で、二人は“いとこ”の間柄です。

妻はこの南部に疎開していた頃、
征三さんたちの後を追って野山や浜辺を
駆け巡っています。

そして今に至るまで
ずっと交流が続いています。

さて南部町は “南高梅”(なんこううめ)
という梅の産地として知られていますが、
征三さん・智須子さんご夫妻も
当地で梅の栽培・加工をなさっています。


梅はちょうど6、7分くらい咲いたところで、
見頃ですから、ちょっと見に行きましょうと
私たちを車で山に案内してくださいました。

平地も山も梅、梅、梅の一色です。
とても明るいです。
そして私が気がついたのは
平地も山も道の舗装が
きれいに整備されていることです。

その感想を征三さんにお伝えすると、
征三さんは「これすべて、梅のおかげです」
とおっしゃいます。

確かにと思いました。
実は、南部に着くまでの間、
私たちは電車の窓から、
栽培されなくなったために、
草がぼうぼうと生えている
田畑を数多く見てきました。


そういう荒れ果てた農地と比べると、
使える土地はすべて梅栽培という

南部町の豊かさがわかります。

南部の土地は富を生み出している
と感じました。


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