カテゴリ: 1100回〜

さて、邱永漢さんが通った『南門小学校』の
校舎のあとを見ると、夕暮れ時になりました。
もうあちこち、動き回ることはできません。
そこで、タクシーの運転手さんに「西門市場」を
車の窓から見、その上で、台南駅まで
送っていただくようお願いしました。
「西門市場」とは邱永漢さんのご両親が
働いておられたところです。

「私の父はかなり女にもてたように思う。
それに父はろくに学校も行っていなかったし、
また格式ある家の生まれでもなかったが、
自分で商売をやる才能には恵まれていて、
若い時から台南市の西門市場で商売をしていた。
当時、台南市には(台湾)歩兵第二連隊があって、
そこの兵隊が食べる野菜の類いを納入していた。
この仕事を父が自分で見つけてきたのか、
それとも母の内助の功によって手に入れたのか、
ききそびれてしまったが、とにかくこの仕事によって
私の一家は世のサラリーマンたちとは
比べ物にならないほど豊かな生活を
送らせてもらうことができた。
母は同じ西門市場にある牛肉屋の長女だった。」
《『わが青春の台湾 わが青春の香港』》

台南を訪れる前に調べたところでは
かつては賑わっていた西門市場も
いまはそうとうさびれ、再開発の対象に
なっているとのことでしたが、
実際、車の窓から覗いた限りでも
この市場は活気がありませんでした。

でも、邱さんのご両親が働いておられた場所を
見ることができ、とても満足でした。
そのあと、私たちは台南駅前で降りました。

おりよく、台湾高速(台湾の新幹線)の台南駅行きの
バスの乗り、しばらく待ったあとで、台北に
向かう電車に乗りました。

邱永漢さんが通った南門小学校の
校歌を紹介しましたので、ついでに
同じく邱さんが通った台北高等学校第一校歌を
紹介しましょう。
私なども旧制高校の歌としては、わずかに、
第一高等学校の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」とか
第三高等学校の「紅燃ゆる丘の花」とかを
知るのみですが、今回台湾を訪れたことで
台北高等学校の校歌を知ることになりました。

1
獅子頭山に 雲みだれ  
七星が嶺(ね)に霧まよふ
朝な夕なに 天(あめ)かける  
理想(おもい)を胸に 秘めつつも
駒の足掻(あがき)のたゆみなく  
業(わざ)にいそしむ学びの舎(や)

2
限りも知らに 奥ふかき  
文の林に 分け入りて
花摘む袂(たもと)薫ずれば  
若き学徒の 誇らひに
碧空(へきぞら)遠く嘯きて  
わがベガサスに 鞭あてむ

3
練武の場(にわ)に 下り立ちて
たぎる熱汗 しぼるとき
鉄の腕(かいな)に 骨なりて  
男の子のこころ 昂(おこ)るなり
つるぎ収めて かえるとき  
北斗の星の かげ清し

4
ああ純真の 意気を負ふ  
青春の日は くれやすく
一たび去って かへらぬを  
など君起ちて 舞はざるや
いざ手をとりて 歌はなむ  
生の歓喜を 高らかに

以上です。

邱永漢さんが通った台南・南門小学校のことを
調べると日本統治時代のいくつかの学校の校歌を
曲入りで紹介するサイトにであいました。

ここでは歌だけ紹介します。

1
千早ふる  神の宮居を 朝夕に
おろがみまつり  常盤なる
孔子(くし)の廟(たまや)を  目のあたり
うち仰ぎつつ  ものまねぶ
われらが幸を  思へひとびと

2
いざや友  日嗣の皇子(みこ)の かしこくも
わが学び舎に  いでましし
栄えある歴史  かえりみて
心を 磨き  身を鍛え
君が恵みに  応えまつらん

1番にある「孔子(くし)の廟(たまや)」とは
孔子廟のことでしょう。
実際、学校は孔子廟のまん前にありました。

また2番にある「日嗣(ひつぎ)の皇子」とは
「皇太子」のことで、後の昭和天皇が皇太子であった頃の
ことを指すものでしょう。

前に、邱さんが生まれる前年の大正12年に
その皇太子が、孔子廟を訪れたことを紹介しましたが
その際に、日本人子弟が通い、一部、
名士の台湾人子弟が通った「尋常小学校」
であったこの南門小学校も訪れられた
のかもしれません。

少し、寄り道をしましたが、
台南の「孔子廟」を訪れたあと、
私たちは邱永漢さんが通った元の「南門小学校」を
訪れることにしました。

その「南門小学校」の校舎が今は
「台南市立建興国民中学」に変わっています。

このことを事前に調べていて、
「孔子廟」を出た後、出会った大学生に聞くと、
「建興国民中学」の場所を教えてくれました。

「孔子廟」から道を超えたところに
「建興国民中学」がありました。

「建興国民中学」の校舎
はコンクリート作りで
戦後に建造されたように見えます。
ただ、校舎の中を通って、
運動場の方に行くと、
煉瓦積みの建物が見えます。

この煉瓦積みの建物は日本統治時代に
つくられた建物のように思われ、
私にはこの古いレンガ造りの校舎が
「南門小学校」の校舎のように見えました。

運動場の向こうには、「南門」の跡が見えます。
台南の町も,昔は城壁に囲まれ、、
町への出入りは東西南北の門からしか許されず。
門では厳重なチェックが行われていました。

中でも南門は城の正面に位置した
ため一番立派な門として建てられた。
今はその門と一部の城壁が残されています。

その「府城南門公園」を訪れることはできませでしたが、
邱さんが通った小学校は、この南門近くにありました。

私たちはその学校の校舎跡を訪ね、
邱さんが植民地の子供として差別を受けながらも、
才気煥発の少年として勉学に勤しんだ
往時を思い浮かべました。

大正12年4月、昭和天皇が皇太子時代に
台湾を行啓し、21日の項に「歩兵第二連隊営庭での閲兵」
の記事がありますが、これが私などの興味をひくと
書きました。

というのは、邱永漢さんの
『わが青春の台湾 わが青春の香港』の中には
次のような記述があるからです。

「当時、台南市には(台湾)歩兵第二連隊があって、
(父は)そこの兵隊が食べる野菜の類を納入していた。
(中略)この仕事によって私の一家は世のサラリーマンたちとは
比べ物にならないほど豊かな生活を送らせてもらうことができた。

ところで、歩兵第二連隊はどこにあったのでしょうか。
インターネットで調べると、
(1) 台湾の台北に歩兵第一連隊が、
台南に歩兵第二連隊が置かれていたこと、
(2)今の成功大学の大成館と旧文学院に
当時の日本軍歩兵第二連隊の駐屯地であたこと
この二つのことがわかりました。

この成功大学というのは、
台湾高速(新幹線)の台湾駅から
台南市内に向かうバスで見た大学で
付属病院がけんさつされていて、ずいぶん立派な
校舎を持つ大学だなあとと思ったところです。

ついでにこの成功大学についも調べたら、
この大学は国立の名門大学で、
「北は台大、南は成大」と言われているとのこと。

そして日本統治時代の1931年に設立された
台南高等工業学校(臺灣總督府臺南高等工業學校)
の後を追って、つくられた学校で
台南を中心に活躍した鄭成功にちなんで
「成功」と名づけられたことを知りました。

調べると、色々なころが連鎖的に
わかることが面白いところです。

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