カテゴリ: 3700回〜

昨日、ふとテレビに目を移すと
NHKで青山通りのことを取り上げた番組が
放映されていました。

いつも「不動産見て歩きセミナー」で
歩いている通りなので、見入ってしまったが、
自分がよく知らないことが伝えられ、
少しばかり興奮しました。

あとで番組案内を見ると
次のような解説がありました。
「第2回 街はこうして輝いた ~青山・石津謙介~ 」

 

東京オリンピックの年、
ファッションとはまだ全く無縁だった青山にひとりの男が乗り込んだ。
VANの創業者、石津謙介。
彼が売り出したアイビールックは10代の若者たちの心をわしづかみにし、
青山は、「VAN TOWN」と呼ばれるようになる。
ボタンダウンとコットンパンツで、

街を変え若者の生き方も変えた石津。
松任谷正隆さんやコシノジュンコさんなど
石津に憧れた人々の証言から青山を変えた男の軌跡をたどる。
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なお、この番組は昨2014年10月、
シリーズ東京 「街はこうして輝いた ~青山・石津謙介~ 」
と題して放映され、その時は次のように案内されました。

50年前、あの男がやってくるまで、
青山にはファッションのニオイが全くなかった。

その男とはVANの創業者、石津謙介。

彼が売り出したアメリカ東部の名門大学、
アイビーリーグのファッションは
10代の若者たちの心をわしづかみにした。

時は1964年、東京オリンピックの開催目前。
青山練兵場跡に国立競技場が建ち、
道路は拡幅され街は日々激しく変貌していた。


ここに拠点を置いた石津VANは急成長、
青山は「VAN TOWN」と呼ばれるようになる。
さらに石津は東京オリンピック・選手公式ユニフォームの
真っ赤なブレザーのデザインを手がけ、
まさに時代の寵児となった。

青山の変貌を石津謙介の足跡と重ねて描く。

その東京オリンピックで、
日本選手団の真っ赤なブレザーを
デザイン・監修したのが石津謙介であった。
当時は特に男性が赤色の洋服を身につけること自体が
画期的な事であった。
周囲の反対や心配があったものの、
結果的には後々までに語り継がれる
印象的なユニフォームとなったのである。

台湾で発行された邱先生にゆかりの
深い方々の本を手元におくことができるようになり、
私は中国語文法の基礎勉強を再開することにしました。

私の中国語勉強の始まりは
中国株に投資するようになったことがきっかけで、
広州から日本に来ていた中国人女性から
初級の教本を週一回のペースで学びました。

それが1年ほど続き、そのあとは
大人が書いた中国語の文章が読めることを
目標に「中国語4週間」という本を読み、
それで、中国語の勉強は休止しました。

それから、10年ほどの時間がたち、
昔読んだ、「中国語4週間」を探したのですが、
どうしても見当たりません。

そこで、いま台湾、高雄で
日本語を教えている方に
中国語の基礎を再勉強するに適した本を
探していただきました。

そして紹介いただいたのが
『やさしくくわしい中国語文法の基礎』で、
この本を読みながら、適宜、
4冊の中国語本を読み勧めっているところです。

ついでですので、
邱先生が亡くなられてから、
台湾で、邱先生のことを暑かった2冊の本が
出版されていることをお伝えいます。

一冊は
舌尖上的記憶:邱永漢談吃
です。
「料理は舌で覚えるものー邱永漢、食について語る」
といった意味でしょうか。

もう一冊は
退屈しないのがよい人生ー邱永漢、食をを通しての友達づくり」
とでもいった意味でしょうか。

著者は楊怡祥氏で耳鼻科の医師。
お医者さんがどうして、邱先生のことをと
思ったのですが、先生の妹様、楊邱素芸様と
お話させていただいた時のことを思い出しました。

ご子息が台北から東京の大学に
留学し、
東京の邱家から通学されたとおっしゃっていたのを思い出し、
楊怡祥氏は楊邱素芸様が語っておられたそのご子息だと
いうことに思い至ったのです。

この本には邱先生がいろいろな方に
ご馳走した料理のメニュー(色紙)の写真が掲載されていて、
身内の人でなければ載せられないような写真がどうして
という疑問にについてお、合点がいくようになりました。

ちなみに、この2冊、発行されて時点で
台湾のビジネス誌「今周刊」の記者が送ってくださったものです。
先生が亡くなれたらとき、取材に応じたことへの
お礼の意味からだと、感謝しています。

 

 

 

 邱先生の大先輩である
朱昭陽先生の自伝を贈ってくださたのは

朱先生のご長女である洪朱秋月様です。

また邱先生の思い出の写真、
頼永祥先生の結婚式の写真を贈って
くださったのも洪朱秋月様で、
おかげで、この写真が邱先生の一級上の
頼永祥先生の自伝書「坐擁書城」を
手に入れることができました。

また頼永祥先生は現在アメリカにお住まいですが、
FACE BOOKを利用され、私は僭越ですが、
頼先生とFB上の友達にさせていただきました。

こうしたことを、洪朱秋月様にお伝えすると
大変お喜びいただき、来年、小生が
台湾を再訪する際の面談をお約束いただきました。

ところが、2月にはお元気であったのに
10月不意の病でお亡くなりになったことを
アメリカの頼先生からのメールで
教えていただきました。

今年、2月お会いできなかったこと、
また来年の面談が叶わなくたこと、誠に残念ですが
大変なご好意とご配慮のおかげで、台湾における
邱先生にゆかりの深い方々を知ることができるようになりました。

洪朱秋月様のご逝去、お悔やみ申し上げます。 

 前回、邱先生にゆかりの深い
二人の方の自伝をご紹介してくださったのが、
朱昭陽先生のご長女である洪朱秋月様であると
書きました。

洪朱秋月様は邱先生が銀行に勤めるかたわら
毎晩のように朱昭陽先生宅に来ていた邱先生を
よくお知りになっている方です。

たまたま、私の友人で、
洪朱秋月様と知り合いになった人がいて
そのつながりで、小生も交流いただくようになりました。

そして、今年2月、私が友人たちと
台湾における邱先生ゆかりの地めぐりに行った時、
台北で洪朱秋月様ご夫妻と会食するよう
段取りを組みました。

ところが、肝心の小生が体調を崩し、
会食に出ることができず、ホテルが休むことに
なりました。

そのため、会食は段取り役の小生不在の状態で
開かれたのですが、洪朱秋月様がとても残念がられ
小生が泊まっていた台湾のホテルに
ご尊父様の
自伝を届けてくださいました。

そして、邱永漢が載っている写真を探しだし、
それを小生のメールに送ってくれました。
それが邱の一年上の先輩であった
頼永祥先生の結婚式の写真で、邱先生のほか、
邱先生のご著書で紹介されている友人が一堂に
会されている写真で、びっくりしました。

そして、その写真の出所を探るなか、
写真は頼永祥先生の自伝書、
「坐擁書城」であることを知り、後日、
台湾の書店から購入させていただきました。

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