カテゴリ: 3700回〜

山陽堂の歴史を追うと、
次の記録に出会いました。
「昭和38年(1963年)東京オリンピックのため
青山通り道路拡幅で山陽堂は3分の1の狭さに。
建物が頑丈にできていた為、
壊さずに削ることになりました。」

私の知人で、
青山通りでご商売をされている方から
この道路拡張のときの話を「立ち退き話」として
伺ったことがあるので、この山陽堂の体験を
身近に感じながら読ませていただきました。

この道路拡張の話をウィクペディアは
次のように紹介しています。
「1964年(昭和39年)の東京オリンピックに向けて
大幅な道­路の拡張工事が計画され、
これが大きなターニングポイントとなり、
現在の青山通りの姿­に向かうこととなる。

工事の結果、青山通りはそれまでの22mから
現在の40mの道路­へ拡張が行われた。
昭和43年9月29日、長年にわたって、
親しまれてきた路面電車(­当時、都電)は、
青山1丁目~渋谷区間が姿を消し、以後、
青山通りは自動車が独占する­通りとなっている。」

 

青山通りと表参道が交差するところに
一面の外壁に週刊新潮の表紙が描かれた建物があります。

「週刊新潮の表紙を飾っていた谷口六郎さんの絵だ」
というくらいしか思わなかったのですが、
先日、青山通りのことを取り上げた
テレビ番組を見て初めて知ったのですが、
その建物が山陽堂という本屋さんなのですね。

全く気づかなったのですが、
この山陽堂さんがHPを発行し、
そこで、この外壁の壁画のことについての
紹介しているので、引用させていただきます。

「山陽堂はどれほど六郎さんの壁画に助けられていることでしょう。
3分の2が削られてしまいましたが、
残った3分の1に六郎さんの壁画の贈り物がありました。

壁画の経緯ですが、
当時の新潮社社長が建築途中の山陽堂の前を通り通勤していたようで、
週刊新潮表紙を飾っていた六郎氏の絵を壁画にしたらと考えたようです。
昭和38年(1963年)に完成した黄色い背景の赤い風船の絵が壁画第一号、
昭和50年(1975年)に現在の「傘の穴は一番星」に変わりました。
山陽堂はこれからもこの六郎さんの壁画を
大切にしていきたいと思っています。」


 

前々回からの石津謙介氏についての文章引用の続きです。
(出典:月刊「事業構想」2016年1月号)

コシノジュンコや三宅一生にも影響

石津謙介は、後に続くファッションデザイナーである、
コシノジュンコや三宅一生へも影響を与えている。
コシノジュンコは、ブティック「コレット」をV
ANのすぐそばに青山にオープンさせている。
三宅一生も同じく青山に拠点を構えている。

このように、戦後のファッション文化の礎を築き、
青山のイメージをかたちづくる役割を果たした石津謙介であったが、
時代の移り変わりや商社介入の拡大路線で、
1978年に500億円の負債を抱えて倒産している。
その後は、主に評論家や文化人として活躍をつづけ、
2005年に93歳の生涯を閉じている。
生誕100年のイベントにはかつての社員をはじめ
400人もの人が集まるところに、人柄が偲ばれる。

渋谷・青山エリアで生まれ育ち、
『青山文化研究―その歴史とクリエイティブな魅力』(宣伝会議、2011年)
の著書もある青山学院大学の井口典夫教授は、
石津謙介について、次のように語った。

「高度成長期の中、企業利益以上に文化を重視し、
地域貢献的な活動まで展開した傑出した人物。
その後、1990年代になって経済界がメセナを声高に唱えることになる。
私が国と進めてきた青山通り整備計画も、
石津の愛する米国的市民文化やモダニズムを基調としたものだ。
要は社会が石津にまだ追いついていなかったのであろう。
彼の提唱した文化とまちは、
今の青山に確実に息づいているのである」

 

前回に続き、石津謙介氏についての文章引用の続きです。
(出典:月刊「事業構想」2016年1月号)

アイビーファッションを日本に紹介

団塊の世代を中心に1960年代に流行したのが、
アイビーファッションであった。アイビーとは蔦を意味するが、
アメリカ東部の名門私立大学8校は、
「アイビーリーグ」と呼ばれていて、
アイビーリーグの学生たちのファッションが、
アイビーファッションの原型であった。
三つボタンのジャケットに
ボタンダウンシャツ、コットンパンツが定番であった。
それをいち早く日本に紹介したのが、VANブランドであった。

自社で販売するだけでなく、石津謙介は、
こうした男性向けファッションを雑誌などの
メディアへの寄稿を通じて情報発信していった。
従来は女性向けのファッション情報はあっても、
男性向けのファッションは
お手本となるべきスタイルがなかったのである。
そこに、VANヂャケットは、
若い男性の手本であり憧れの存在となったのであった。

現在では、「TPOをわきまえた服装を心がける」などと、
ビジネス用語としても普通に使われている「TPO」という言葉。
これは日本でしか通じない和製英語で、
石津謙介による造語である。
Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)の
頭文字をとったものである。
また、スポーツのトレーニングの際に着ていた運動着を
「トレーナー」といったのも、石津による造語である。
これ以外にも数多くの造語があるとされており、
新しい文化を生み出しているといえる。
 

VANヂャケットは、最盛期には、
400億円を超える売上があったとされる。
青山通りを中心に、VANの本社やオフィスなど、
VAN関連企業が点在していた。
 

現在は、表参道交差点からほど近い
青山通り沿いのブルックスブラザーズが入居するビルは、
かつては「VAN
99ホール」であった。
これは、99人収容の多目的ホールで、
入場料も99円と破格であった。
この建物は、元々、第一銀行(現みずほ銀行)からの
「本店並みの格式をもった建物を」という要請に応えて、
1967年に建てられた。
高い天井高と金庫室を備えた頑丈なつくりであるが、
1972年からは「VAN
99ホール」として使われていた。
このホールは、コシノジュンコの
ファッションショーの会場としても使われた。

 VANヂャケットや石津謙介は若者にとっての憧れの対象であり、
その本社の屋上看板には、
「VANタウン青山」と記されていたほどであった。

 

石津謙介が活躍したのは、
私が大学で学び、また社会人になった
1960年代の頃のことで
名前はよく知っているが、どういうキャリアを
へた人であるかはよく知りません。

そこで、調べたら、次のような説明に出会いました。
(出典:月刊「事業構想」2016年1月号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

青山にはファッション関係の企業が集積し、

海外ブランドの旗艦店が立ち並んでいる。
また、最先端のデザイナーやクリエイターも多く集まっている。
そのきっかけをつくったひとりが、
今年没後10年の石津謙介である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
東京オリンピックで変貌する青山に可能性を感じる

石津謙介は、明治末期の1911年に
岡山県の紙問屋の家に生まれる。
裕福な家庭に育ち、東京の明治大学に進学し、
卒業後は家業を継ぐために帰郷する。
やがて戦時体制下で、紙が統制品となり、
経営が行き詰まり、1939年に中国の天津に移り住む。
そして終戦を迎え、無一文状態で日本に帰還する。

終戦後は神戸・三宮で闇市の商売をしたり、
大阪のレナウンサービスステーション(現レナウン)で勤めた後に、
1951年に大阪で自ら紳士服をデザインする石津商店を創業する。

石津商店は順調に発展し、
4年後の1955年に東京に進出すると同時に、

社名を「株式会社ヴァンヂャケット」に変更する。

東京に進出した当時は麹町に事務所を構えていたが、
その後、日本橋、愛宕などを経て、
1964年に青山に本社を移転した。

その年は、前回の東京オリンピックが開かれた年で、
青山通りが22メートル道路から40メートルに拡幅され、
まちが大きく変わろうとしていた時期であった。

その当時は、青山といっても、
閑静な住宅街で、
現在のおしゃれなまちというイメージからは
程遠かったのであるが、

オリンピックを契機に変貌を遂げつつあった青山に
魅力と可能性を感じたのである。

(出典:月刊「事業構想」2016年1月号)

↑このページのトップヘ