カテゴリ: 2900回〜

経済関係の目的でホーチミン市を訪れる人は

「ベトナム中央銀行」や「ホーチミン証券取引所」

を訪れると思います。

 

これら金融関係の中枢機関は

ホーチミン市の1区のサイゴン川沿いの場所にあり、

最近、この1区と

サイゴン川を隔てた対岸の2区を結んだのが

トゥ・ティエム(Thu Thiem)トンネルです。

 

私などが初めてホーチミン市を訪れたのは

6年前のことで、「ベトナム中央銀行」や

「ホーチミン証券取引所」を訪れた際、

これらの施設が立つ1区と対岸の2区は、

今後、中国、上海の外灘(ワイタン)

のような金融センター地区として開発され、

現在、1区と2区を結ぶ地下トンネルの工事が

進められていると聞きました。

 

2011年10月にもこの辺を訪れましたが

今から思うと、その時点で

地下トンネルの工事はほぼ完成に近づいていたようで、

翌月の11月にこのトンネルが正式に開通ています。

 

今回、私たちを案内してくれたガイドさんは

「大林組がこのトゥーティエムトンネルを

造ってくれたのです」と語っていましたが

このトンネルの建設は日本のODAにより、

行われたのもので、建設に7年の期間を要し、

東南アジアで一番長い、全長1.5kmのトンネルです。

 

またこのトンネルの完成で

ホーチミン市の東西道路全線21.89kmが開通しました。

この東西道路の開通により、

ホーチミン市と東側、南側の移動時間が短縮されます。

 

また、この新しい道の開通で、

これまで通行量の多さにより負担の大きかった

サイゴン橋への負荷も軽減されるなどの効用がありますが、

この辺の地域が今後、どのように発展していくか楽しみです

8月12日、

私たちはホーチミン市の新興開発地区(7区)

フーミーフンを訪れ、日本人学校などを

見た後、再びホーチミン市の中心部に戻ることにしました。

 

いつもは、フーミーフンからの帰りも

フーミーフンに行くときと同様

既存の道路を通っていましたが、

今回は、2区と7区の境を流れる

サイゴン川に架けられた斜張橋、

H形のフ・ミー橋を通ることにしました。

 

ホーチミン市の2区というのは

サイゴン川によって分断され

発展の遅れている地区ですが、

サイゴン川を通るトゥー・ティエム(Thu Thiem)橋や

トゥー・ティエム(Thu Thiem)トンネルの建設が

公表されて依頼、市の将来有望な地域として

見られている地域です。

 

フ・ミー橋は

横浜ベイブリッジや、

東京湾のレインボーブリッジ

を見慣れている目から見ると

かわいらしい規模の斜張橋ですが、

発展途上のベトナムにおいては

重要な意義を持つ橋です。

 

このフ・ミー橋を通って

私たちは“期待の地”、2区の中を通る

道を通りました。

私にとっても、2区の中を走るのは

今回が初体験です。

 

一部、住居が建てられた所がありましたが、

大半は草ボウボウです。

そして、ホーチミン市の対岸の一区に向かうとき、

かねて建設中であったThu Thiemトンネルが完成してて

その中をあっという間に通って

1区の金融街区に行きました。

8月12日、ホーチミン市の中心部にある

サイゴン運輸を訪れたあと、私たちは、

バスで20分ほど南方に走って、

ホーチミン市7区の新興開発地区、

フーミーフンを訪れました。

 

この地域は、開発に当たった

Phu My Hung Corporation(富美興開発公社)の

名前をとってフーミーフン(富美興)と呼ばれていますが、

ホーチミン市中心部の過密状態を改善するための

副都心計画にそって、つくられた広大なニュータウンです。

 

事務所向けのビル、高層マンション、

戸建て住居、フランス系病院などがあり、

中心部とは全く異なる近代的な景観を呈し、

今のベトナムが向かっている方向を

如実に示してくれています。

 

ですので、私のセミナーでは

ホーチミンを訪れた時、

いつも訪れていますが、どなたかが

 ここをホーチミンのビバリーヒルズと評していて

言いえて妙と思いました。

 

この地域には父親の仕事の関係で

当地に赴任している日本人、台湾人、

韓国人の家庭が多く、住居ゾーンに

近接する形で、日本人学校、

韓国人学校、台湾人学校が並んでいます。

 

今回は夏休み中でしたので、

残念ながら、日本人学校の生徒達の姿を

垣間見ることができませんでした。

 

ベトナム運輸に出資した両備グループ、小嶋会長に

慶応義塾がインタビューした記事の引用の続きです。

 

——卒業後は三井銀行に就職し、与信の仕事をしたそうですが。

 

(小嶋)

いずれは起業したいと思っていましたが、

何をすればいいのかわかりませんでした。

そこでまずは商社か銀行で勉強をしようと考えたんです。

入社後は経営を間近で見聞すべく、

「支店で中小企業を担当したい」と伝えたところ、

「じゃあ下町の神田ですなぁ」と

あっさり希望が通って配属されました。

 

与信、つまり貸付担当に早くなりたくて一生懸命働きました。

おかげで本来は十年選手の調査役クラスが就くところを、

入行1年半で担当することができました。

融資の判断指標は、いろいろありますが、

最終的には経営者の資質、能力、人柄を

しっかり見極めることです。

たとえ業績がよくても、

情熱と資質のない経営者に融資はできません。

当時お会いした人の中には、

成長途上のリクルートの江副浩正さんもいました。

後のことはともかく、その頃は

仕事一途の素晴らしい若手経営者でした。

 

——28歳で銀行を辞し、両備グループの両備運輸の常務に転身しました。

 

(小嶋)

家内の実家の松田家から、

経営が悪化していた両備運輸の立て直しを託されたのです。

売上40億円ながら、毎年4億円の赤字を出している状態でした。

資金調達しようにも、岡山の銀行は貸してくれません。

そこで綿密な再建計画を立てて、縁も所縁(ゆかり)もない

当時の日本興業銀行神戸支店に飛び込んで、

融資を申し込みました。面識のない

若造によく会ってくれたものだと思いますが、

支店長がじっくり話を聞いてくれて、目を見ながら

「この計画を実行できますね?」

と念を押したうえで融資をしてくれました。

あれで一息つくことができ、再建を達成できました。

・・・次回に続きます。

ベトナム運輸に出資した両備グループ、小嶋会長に

慶応義塾がインタビューした記事の引用の続きです。

 

(小嶋)

スカンジナビア航空の飛行機を一機丸ごとチャーターし、

ロンドン、パリ、ローマ、ニューヨークはホテルに泊まるものの、

あとは安いYMCAを利用しての世界一周です。

当時は旅行会社もやっていない斬新なプランで、

定員の130人はすぐに集まりました。

日経新聞で「慶應にこんなアイデア学生がいる」

と紹介もしてもらいました。残念ながら、

私自身は試験と重なり参加できませんでしたが、

アイデアが実現し大成功したことに満足でした。

中等部生への家庭教師派遣もやりました。

落第の危機にある成績DやEの生徒を半年で

Bに引き上げることを請け負ったのです。

教えるのは全員中等部出身の塾生、

つまり先輩が後輩の家庭教師をするのです。

目的はあくまでも自学自習の習慣が

身につくよう軌道に乗せることで、

そうなれば派遣は打ち切ります。

これもうまくいって保護者にはずいぶん感謝されました。

 

——たま駅長やおもちゃ電車などを生み出した

ユニークなアイデアマンぶり

(注:和歌山電鉄再生に当たって発揮したアイデア)は、

塾生時代から発揮されていたのですね。

 

(小嶋)

ですからとても忙しい学生でした。

全部の授業に出る時間がないため友人と3人で分担して出席し、

それぞれカーボン紙を挟んで3枚複写で

ノートをとって交換したものです。

ゼミはさすがにそれぞれで選びましたよ。

ノートはカーボン複写でも勉強はしっかりしていましたから、

当時大人気だった気賀健三(きがけんぞう)先生

(故人、元経済学部長)のゼミに入ることができました。

学びたかったテーマは、

「資本主義経済と社会主義経済は

どちらが効率的なのか」ということで、

そのテーマを選んだのは7名。

初回こそ気賀先生が講義をしてくれましたが、

学部長になられたばかりで忙しいらしく、

2回目からはお弟子筋の加藤寛さん(名誉教授)や

助手の方が代講されるうちに、

いつの間にか誰も教えに来なくなりました。

しようがないので仲間との輪読のかたちで勉強を進めました。

そうこうするうちに翌年には後輩が入ってきて、

今度は否応(いやおう)なく教える立場に。

教えるにはよりしっかりと勉強しなければならず、

いい経験になりました。

講義は一回だけだった気賀先生ですが、

卒業論文はしっかり読んで丁寧に指導してくださいました。

…次回に続きます。

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