邱が学んだ頃の東大経済学部は木造でした。
この時のことを、邱は青春期
で次のように振り返っています。
兵隊検査に不合格だった病人と半病人とそして
私のような未成年しか残らなかった。
同期の経済学部の学生は三百五十名いたのが、
四十名ていどに減っていた。
その四十名にも勤労奉仕の仕事が割り当てられることになった。
最初の頃は人手不足に悩む農家へ麦刈りや
そのうちに軍需省に動員されることになった。
「君は台湾人だから軍需省に勤労奉仕に行くつもりなら、
教授の保証が必要だ」と通知してきた。
「どうしてですか」と聞いたら、
「秘密をもらすようなことがあったら困るからだ」と言われた。
「ならば、軍需省に行かなくともよろしいのですか?」
と聞きかえしたら、
「その場合は経済学部の研究室に残って
本の整理の手伝いをすればよろしい」と言われた。
私は二つ返事で研究室に残りたい旨、申し出た。
経済学部には禁書に分類される本がたんとあって、
研究室に残れば、特高や憲兵に睨まれることなしに、
その中に顔を埋めて読書できることがはっきりしていた。
こうして私はたいていの若者たちが学徒動員されて、
ろくに勉強もできなかった時期に、
ひとり研究室に残って万巻の書をひもとくことができた。
私のマルクス、レーニンなどの左翼書に対する知識は
ほとんどこの時期に習得したものである。
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