2017年02月

山上会館で東大経済学部に入学したばかりの
頃の話をした後、赤門の後ろに建つ東大経済学部に
案内しました。

邱が学んだ頃の東大経済学部は木造でした。
今は堅牢な耐震設計の鉄筋構造の建物になっていて
当時の様子を思い浮かべることは難しいですが、
邱は戦争の間、この経済学部の研究室に保管されている
図書整理作業に従事し、万巻の経済学書に親しんでいます。

この時のことを、邱は青春期
『わが青春の台湾 わが青春の香港』
で次のように振り返っています。
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学徒出陣のあとの東大には、
兵隊検査に不合格だった病人と半病人とそして
私のような未成年しか残らなかった。
同期の経済学部の学生は三百五十名いたのが、
四十名ていどに減っていた。

その四十名にも勤労奉仕の仕事が割り当てられることになった。
最初の頃は人手不足に悩む農家へ麦刈りや
田植えの手伝いにやらされたが、
そのうちに軍需省に動員されることになった。
私もそのつもりでいたところ、学生課から、
「君は台湾人だから軍需省に勤労奉仕に行くつもりなら、
教授の保証が必要だ」と通知してきた。

「どうしてですか」と聞いたら、
「秘密をもらすようなことがあったら困るからだ」と言われた。
「ならば、軍需省に行かなくともよろしいのですか?」
と聞きかえしたら、
「その場合は経済学部の研究室に残って
本の整理の手伝いをすればよろしい」と言われた。

私は二つ返事で研究室に残りたい旨、申し出た。
経済学部には禁書に分類される本がたんとあって、
研究室に残れば、特高や憲兵に睨まれることなしに、
その中に顔を埋めて読書できることがはっきりしていた。

こうして私はたいていの若者たちが学徒動員されて、
ろくに勉強もできなかった時期に、
ひとり研究室に残って万巻の書をひもとくことができた。
私のマルクス、レーニンなどの左翼書に対する知識は
ほとんどこの時期に習得したものである。
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台湾女性を東大本郷構内の山上会館に案内する前の日、
我が家の本棚で本を探していると、
長く見つからなかった北山富久二教授の著作
『物価水準の理論 』という本を見つけました。

1936年(昭和11年)に出版されていて、
1942年(昭和17年)に東大経済学部に入学した
邱炳南も読んだ本だと思います。

改めて、この本のページを繰ると
内容は難しく、のちに邱先生が
「北山教授の講義は難解だった」と
述懐していたことを思い出しました。

それはともかく、台北高校から
東大経済学部に入学したばかりの邱は
北山先生の「南洋華僑」についての話を聞き、
目を開かされることになるのです。

その時のことは邱の「華僑は国境を打破するパイオニア」
(『固定観念を脱する法』)に詳しく書かれれています。

こうして講義を聴いた北山教授のゼミで
邱は入りますが、この先生に邱が大変世話になります。
このことは
邱の『わが青春の台湾わが青春の香港』に
詳しく書かれています。

ついでに言うと、北山教授との交流は
大学を卒業した後も続き、一旦、台湾そして
香港で生活し、再び日本に戻ってきたあと、
邱は千葉県市川市の自邸を訪ねています。
『食は広州に在り』に書かれています。

また北山教授が病気で入院したとき、
邱は「入院費にあててください」と
小説を書いて得たお金を贈っています。

邱永漢と北山教授との交流話は
それだけで一冊の本になるくらい、
奥の深い内容のものです。 


さて、私たちはこの日、お目当の山上会館に行きました。

この建物が「山之上御殿」と呼ばれていた1942(昭和1710月、

東京帝国大学経済学部商業学科に入学した 邱炳南(邱永漢)が

北山富久二郎教授の南洋華僑に関する講義を聴きました。

 

1998(平成10)年に邱先生が発表した

「華僑は国境を打破するパイオニア」(『固定観念を脱する法』に収録)

に書かれていることですが、この講義で邱は初めて東南アジアで

経済の実権を握っている「華僑」という存在を知ったのです。


「自分は台湾で生まれ育ったが

それまで自分たちを華僑と同じ種類の人間と考えたことはなかった。

自分たちは日本の植民地人として扱われ、

台湾では『本島人』と呼ばれていた。

 

台湾には『本島人』とは別に『華僑』と呼ばれる人々がいたが、

これらの人々は明治28年以降に大陸から移民してきた人々であり、

オリジンは台湾人と同じでも、

台湾の人たちからは俗に『長山人』と呼ばれ、

中華民国領事館に所属し、外国人として扱われていた。

 

実際にそういう扱いを受けた人々は弁髪を伸ばしたり、

纏足をしていたり、子供は頭のてっぺんに

少しばかり剃り残しの髪を乗せていたりで、

言葉も違えば、風俗習慣も違い、居国人という感じが強かった。


それに、当時の台湾総督府は、

台湾人と大陸の人々の間に隔離政策をとっていたので、

海を一つわたった向こうに、同じ言葉を喋る人たちが

何千万人もいることはわからせようとしなかった。

 

ましてフィリピンやマレーシアやインドネシア

(当時は蘭領東印度と呼ばれていた)に華僑と呼ばれる人々が、

台湾の人口よりもっと多く散在していて、

土地の経済圏をガッチリ握っているとは知る由もなかった。

 

それが東大へ入った途端に、

台湾ではシナ人と言ってバカにされている連中が、

南洋の経済圏を握っているばかりでなく、

中国革命の生みの親として

畏敬の念をもって語られているのを知った。

目から鱗が落ちるというよりは、何とも奇妙な感情に打たれた。」

(「華僑は国境を打破するパイオニア」。『固定観念を脱する法』に収録)

日本の近代建築に不滅の痕跡を残した
ジョサイヤ・コンドルを訪ねたついでに、
台湾と日本の青年たちに伝えたいと思ったのが
「ベルツの日記」で知られているベルツのことです。

ベルツ
の碑はいま、東大病院を眺める場所に
置かれています。

 私はたまたま、大阪の博物館で
ベルツとその日本人の奥さんが
身につけていたものの展示品を見る機会がありました。

展示されていたものは大変高価で、
日本が先進国から読んだ「先生」に
高額なお礼をしていたことを知り、
以来、「ベルツ」に関心を持つようになりました。 

日本も明治の時代は後進国で
このベルツのような先進国の知識と技を
身につけた大先生から多くを吸収しようと
力を注いだ時期のあることを
伝えたいと思ったのです。 

訪れたベルツの碑は綺麗に
手入れされていました。

東大正門の真ん前に安田講堂が見えます。
東大における邱永漢先生ゆかりの建物は
その向かって右側にあ ある山上会館です。
そこに行いく前に、私は正門から左手の位置の
庭に立つジョサイヤ・コンドル像に案内しました。

ジョサイヤ・コンドルは
像の説明にあるように、
日本における近代建築の父 です。

自身、日本でたくさんの建築を建てるほか、
若き日本人建築家を育てています。

『コンドルの真価が発揮されたのは
工部大学校での教育・人材育成であろう。
日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、
のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)、
慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣(せんしょうかく)」
を手掛けた曾禰達蔵(そねたつぞう)など、
そうそうたる建築家群を育て上げ、
日本の近代化に大きく貢献した。(出典 三菱人物伝)

日本も、後進国出会った頃、
こういう先進国の先生のお世話になっていることを
今のアジアの若人たちに伝えておきたいと思ったのです。
 

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