2017年01月

邱永漢先生が参院選全国区に出馬し
落選によって大きなショックと逆風を受けたのですが、
そのとき、渾身の力を込め、再起を願う
邱先生を奥様が激励された話を伺い、
心うたれました。

続いて、奥様はヤオハンの倒産から
再起不能に近い状態に置かれたときの
不幸な出来事についても話されました。

ヤオハンは当時、台湾での事業展開を考え、
社長の和田一夫さんと親しい間柄にあった邱先生は
ヤオハンが台湾でテナントとして活動できる大きな商業施設を
建設していたのですが、ヤオハンの突如の倒産で、
先生が進めていたプロジェクトは頓挫してしまったのです。

普段は元気のいい、邱先生も
再起不能の事態に置かれたのですが、
奥様は先生を励まされたのだそうです。



前回、紹介したような事情から
邱永漢先生は、昭和55年の参院選に出馬したのですが、
結果は落選となりました。

邱先生は後日談として、
政治の世界に足を踏み込んだ人たちをジャーナリズムは敬遠し、

邱先生もその例外でなく、描いた作品の掲載を断られたそうです。


邱亜蘭夫人はこのころのことにふれ、

「『とにかく、書いて、書いて、(中央公論社社長の)

嶋中さんのところに持ち込んでください』と激励したんです」
と話されました。


そしてこの頃、「中央公論」誌に掲載されたのが次の
3作品です。 

一つは「香港の挑戦」。
二つは「海外投資」。
三つは「経済一等国日本」。

私は当時、この連作を読み、

ご自身の体験をもとにしたこれらの作品を

興味ふかく読ませていただいたのですが

こうした邱先生のご活躍を奥様が

力づよく励まされていることを知り、

温かいものを感じさせていただきました。



邱永漢先生は昭和54年参院選全国区に出馬したことについて

次のように振り返っています。

「日に日に勢力の強くなっている中国政府の政治情勢を前に、
台湾の将来がどうなるか悲観的になっていた。
万一、中共が武力で台湾を解放したら、
国民政府の要人たちはアメリカにでも逃げればよいが、
あとに残された1500万人の台湾人と、
400万人にのぼる外省人はどうすればいいのだろうか。(略)

あの時点で、私にできることは(のちになって考えれば、
自分勝手な、大変飛躍した着想にすぎないが)
日本籍に移って、日本の政治家になり、
(たとえば、参議院の体外援助委員会の委員長になって)
中共に対して資金援助する場合、多少の影響力を持ち、
中共の台湾政策に口出しができることだと思った。
ちょうど宝山製鉄所の建設のために、
日本側が3千億円にのぼる資金援助を成立させたところであり、
私の見方によれば、
この資金はいずれ予定通りに返済できなくなり、
中国側の立場は弱体化する筈だから、日本側の議員になれば
その分発言権が強くなると思ったのである。

一旦思い立つとやらずにおれない質だから、
私は自分が参議院全国区に立候補する意思表明をした。
日本国籍もない人間が日本籍に転入して選挙に出るようなことは
前代未聞のことだから、たちまちジャーナリズムの話題になった。
しかし、選挙のプロの評論家たちの反応は冷淡で、
恐らく10万票とれたらいいだろうと軽く突きはなされた。

まず活字出身の候補は選挙に弱いこと、
いくら知名度があっても外国人には票を入れる人が少ないこと。
もちろん私自身はそれをまともに信じなかったから、
立候補したのだが、結果は向こうの方が
正しいことを証明することになった。
せめても慰めは、宣伝カーに乗らず、お金の持ち出しにもならず、
選挙運動らしいこともせずに
15万票を集めることができたことであろう。
『選挙というのはギブ・アンド・テイクだから、
利益がなければ、票にならないものですよ。
何もやらないで15万票とれたから大したものです。
自民党の議員さんだって組織票にたよらずに、
それだけとれる人はいなんじゃないですか。』
と中曽根さんから慰められた。」
(邱永漢著『鮮度のある人生』)

この後は次回で。 

邱永漢先生の夫人、邱亜蘭様は

「山あり谷ありの人生だった」との回顧のなかで、

昭和54年、参院選全国区に出馬(落選)後に、

マスコミにシャッタアウトされるようになったとき、

ご主人(邱先生)を「激励したんです」と話されました。


これには、多少の説明が必要だと思います。

邱先生は奥様と一緒に、日本にやってきてから

15年たったところで日本人に帰化し、そのあと
参議院全国区の選挙に出馬することを決めました。

このことについて、先生は次のように振りかえっています。
「もともと私が作家になったのも、
戦後台湾の腐敗政治にあきたらず
『台湾の独立』を主張して香港に亡命したことが契機であった。
『密入国者の手記』『濁水渓』『香港』といった
私の初期の一連の作品はいずれも、
見方によっては、きわめて政治色の濃い作品である。

また私が47年に、それまで対立状態にあった国民政府と妥協して
24年にのぼる亡命生活にさよならを告げて台湾へ帰ったのも、
きわめて政治家的な行動と云ってよいだろう。
日本では、政治から完全にフリーな生き方が可能であるが、
政治や経済や文化や言論がまだ未分化の状態にある韓国や台湾や
中国大陸では残念ながら、政治の影響を受けないで、
物書きとして生きて行ける余地は非常に少ないのである。

それにしても、台湾の選挙にでも立つのなら話はわかるが、
私が突如、日本に帰化して
日本の全国区参議院に出馬する気になったのは
どうしてであろうか。
一口でいえば、私が台湾の将来を心配し、
中国大陸と台湾の間の平和的な解決に
何らかの方法で手が出せたら、と思ったからである。

むろん、中共と台湾の問題は、日本の政治の直接問題でもないし、
また日本の有権者たちの直接の関心事でもない。
だから、私は『二十一世紀をぜひアジアの世紀にしたい、
そのためには、日本人と中国人の関係がうまくいくことが大切』
『幸い私は通訳も要らないし、
双方の心情もよく理解しているので、
その橋渡し役を買って出たい』と主張したのである。」
(「落選もまた楽し」。『食べて儲けて考えて』に収録)

この後は次回に。 

私は邱永漢先生の奥様に話させていただきました。

邱先生と奥様が住んでおられた
香港、九龍地区のお住まい(跡地)を訪ねたこと。

また奥様の里であり、最初の邱著作誕生の街である
広州を訪ねたこと。

そんな、私の話に耳を傾けられ
奥様は手を上下に動かされながら話されました。
 
邱先生とご自身の人生が
「山あり、谷あり」の
ハラハラ人生であったことを表現されたのです。

最初に振り返られたのは
邱先生と奥様の結婚式のあと、
カルチャーの違いから、行き違いが生じたことでした。

邱先生の『奥様は料理がお好き』ほかの作品に
描かれている出来事についての話されたのです。 

この出来事については、邱先生の作品を通し、
伺っていますが、奥様の回顧の言葉には
格別の響きがありました。 

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