24歳の邱炳南青年は亡命する2ヶ月前の
1948年(昭和23年)8月、初めて香港を訪れました。
国連に台湾の将来を決める
国民投票を請願するための書類を書く
密命を帯びてのことです。
このときの感想が
『わが青春の台湾 わが香港』で次のように書かれています。
「翌朝、厦門を発って一時間後には無事、香港の啓徳飛行場に着いた。
廖文毅氏がわざわざ私を迎えに来てくれていた。
すぐその足で金巴利道(キンバリー・ロード)にあるアパートに連れて行かれ、
荷物を置くと、昼食をしようと案内されて、
香港島側の浅水湾(ツェンスイワン)にあるリパルス・ベイ・ホテルに行った。
コローニアル風の建物で、海の見えるバルコニーに陣取っていると、
突然、自分が船底の暗闇の中から一等のデッキに出てきたような錯覚におちいった。
『台湾と香港はどうしてこんなにも違うのだろう?
こんなところで一生暮らせたら、どんなに素晴しいことか』
と私は目の前がくらくらするのを禁ずることができなかった。」
いまの時代、リパルスベイというと
海岸地帯が観光地としてひらけ、
たいてい、そこに連れて行かれますが、
レパルス・ベイ・ホテルのメインダイニングを改修して、
ザ・ベランダ・レストラン(The Verandah Restaurant) が
設立されています。
私たちはゆかりの地よして、このレストランを訪れ、
テラスで、めいめい好きなものを飲みました。