2016年03月

24歳の邱炳南青年は亡命する2ヶ月前の
1948年(昭和23年)8月、初めて香港を訪れました。

国連に台湾の将来を決める
国民投票を請願するための書類を書く
密命を帯びてのことです。

このときの感想が
『わが青春の台湾 わが香港』で次のように書かれています。

「翌朝、厦門を発って一時間後には無事、香港の啓徳飛行場に着いた。
廖文毅氏がわざわざ私を迎えに来てくれていた。
すぐその足で金巴利道(キンバリー・ロード)にあるアパートに連れて行かれ、
荷物を置くと、昼食をしようと案内されて、
香港島側の浅水湾(ツェンスイワン)にあるリパルス・ベイ・ホテルに行った。
コローニアル風の建物で、海の見えるバルコニーに陣取っていると、
突然、自分が船底の暗闇の中から一等のデッキに出てきたような錯覚におちいった。
『台湾と香港はどうしてこんなにも違うのだろう?
こんなところで一生暮らせたら、どんなに素晴しいことか』
と私は目の前がくらくらするのを禁ずることができなかった。」

いまの時代、リパルスベイというと
海岸地帯が観光地としてひらけ、
たいてい、そこに連れて行かれますが、
レパルス・ベイ・ホテルのメインダイニングを改修して、
ザ・ベランダ・レストラン(The Verandah Restaurant) が
設立されています。

私たちはゆかりの地よして、このレストランを訪れ、
テラスで、めいめい好きなものを飲みました。

 

 

 

今から、69年前,24歳の邱炳南青年が
居候した家の後に立つホテルに泊ると、
当時の香港はどういう状況にあったのか
また台湾はどうだったのかに思いが行きます。

そこで、持参していたパソコンを開き、
ユー・チューブ1950年代
の香港の映像を探しました。
カラフルな写真が無尽蔵なくらい見つかりました。

当時の香港にはたくさんの物資が集まり、
香港は栄え、香港の人々は豊な生活を
謳歌していたことがわかります。

他方、邱が脱出してきた台湾は
どうだったでしょうか。

砂糖生産が人々の生活を支える主産業でしたが、
蒋介石率いる国民政府が対話の人たちに
残虐の限りを強いたので、台湾の人たちは
恐怖におののきながらの生活を送っていたでしょう。

そういう台湾から脱出してきた香港は
邱には繁栄する香港は眩しく映ったと思いますが、
その先のことを思うと、不安ばかりで
邱は絶望感に打ちひしがれていたのではと思いました。


邱炳南青年が香港に亡命した際、
身を寄せたのは郷里の先輩の家でした。

香港、九龍地区、諾士佛台(ナッツフォードテラス)
というところにあり、いまはホテルが立っています。

そのホテルに泊り
その頃の邱炳南に想いを寄せました。

昭和23年10月、24歳の邱炳南青年は
台湾独立運動に立ち上がりましたが
銃殺の危険を感じ、
台湾から英国統治下の香港に亡命しました。

郷里の先輩宅に居候したのですが、
前途への不安から一睡もできない夜を過ごしました。

数えると、今から69年前のことになります。

 

というわけで、香港を訪ねました。

香港は、比較的よく訪ねている街ですが、
邱先生ゆかりの地めぐりで訪ねるのは
十数年ぶりです。

戸田ゼミという名前の勉強会を開いてから
2年後のことで、この勉強会に参加いただいた
方々の提案で、香港の日本商工会議所の
事務所になっていた香港・三越のオフィスで
勉強会を開きました。

そのあと、先生が亡命時、居候されいてた所
周辺を訪ねましたが、この訪問には、
香港在住の方もおられ、その方が、後日、
邱先生ゆかりの地をじっくり回り、
先生が居候されていた家はいまは
ホテルになっていると伝えてくれました。

以来、そのホテルに泊まってみたい
と思っていましたが、今回、ようやく、
その思いを叶えることができました。

 

 

 

 

去る3月12日から17日まで
香港、広州、台湾(台北と台南)と動き、
それぞれの地で邱永漢先生、ゆかりの地を訪ねてきました。

実は、昨年2月、台湾を訪れ
台南と台北で邱先生のゆかりの地を訪ねました。

このとき、生まれ故郷の台南で
先生がこの辺で小学6年生までの生活を
過ごされた地域を見て回りました。

また台北で、邱先生に長年仕えられた方と
面談することができました。
この方は、邱先生について、数度
墓参りに行かれたとのことです。

この体験から私の親友で
邱先生に対する感謝の気持ちを持つ人が
この方にお願いして、先生のご生家を訪ねたいと
切望されました。

これが引き金になり、
昨年に続いて台湾を訪れることになり、
それに先立ち、先生が亡命生活を過ごされた香港や
先生のヒット作『食は広州に在り』の
故地、広州を訪ねることにしたのです。

こうして、6日間かけて
香港、広州、台湾の三つの地域を
回ることになりました。

 

 

 

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