2015年12月

2012年10月にNHKで放映された
「あの人に会いたい(邱永漢)」は私の見るところ、
NHKが過去に邱先生を取材した三つの番組から
そのエッセンスを抜粋し編集したものです。

わずか、10分ほどのものですが、
邱先生のつねに前を見続けた「生きざま」が凝集され、
拝見すると触発され、また時間をおいて再見しても
新鮮な気持ちにさせられるところがあります。

これが、実際にNHKで放映された時点で、
私のところには「見ることができなかった」
という友人がいて、その人たちのために、
娘が複製してくれたDVDを送りました。

そして、今回、友人のご好意で上映しましたが、
この映像を見たことがないという人から
DVDの送付を頼まれました。

そして、今回、この追悼映像を見ていない人が
多いということがわかりました。

邱先生の「生き方」に触れるには先生の
その分野の著作を読むのが一番ですが、
今回の上映に対する友人たちの反応から、
この映像にふれ、そこから著作に触れるという
道もあるのではと感じました。

ということで、今回、友人たちから受けた
要望に応じるため、いま娘にこの映像のDVD作成を
頼んでいるところです。

 

 

 

 

 

 

戸田ゼミ忘年会で
NHKが2012年10月放映した
「あの人に会いたい (邱永漢)」を
友人が上映してくれました。

当日、これを上映すると伝えると、
そのコピーをお願いしたいという
方が現れました。

「すり切れるまで繰り返し何度も
見るよういなると思います」とのことでした。

また、当日、上映がすんでから
入場された方のため、私は後日、DVDを送りました。

以下は、その友人から礼状です。
「戸田さん。邱先生のビデオ受け取りました。
昨日、ビデオを見ました。初めて見る映像でした。
生前の邱先生の姿を見て、感激しました。邱先生は、
私にとって人生の師ですので、このビデオは、
私の宝物になると思います」。

私の友人は邱先生を尊敬し、
信頼してきたい人が多いので、
こういう感想を持つ方が多いと思います。

戸田ゼミ忘年会(第12回)を南国酒家、原宿本店で開きました。
当日の次第は次の通りです。

(1)「あの人に会いたい 邱永漢」(NHK)上映
(2)台湾における邱先生ゆかりの地訪問報告(関連本7冊紹介・戸田)
(3)乾杯(友人代表)
(4)記念の集合写真
(5)食事。&参加者全員のプロフィール紹介(戸田)
(6)香港と中国の現状と将来についてご講演(在香港の友人)
(7)来年の戸田ゼミ計画説明(戸田)
   (ベトナム・ハノイ/ 香港・広州・台湾・インド・スリランカ)

忘年会終了後は、表参道と「楡家通り」を歩いて
根津美術館前につき、そのあとは二手に分かれて、
南青山を楽しみました。

(8の1)根津美術館訪問
(8の2)根津美術館近くの投資向きマンション視察 

青山通りの由緒ある建物としては
青山霊園があります。
この霊園、元は江戸幕府の幕臣・青山家の
邸宅があった場所だそうです。
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江戸時代、
すべての国民は幕府公認の寺院の檀家になることが定められていて、
誰かが亡くなった際の葬儀や埋葬も寺院に委ねられていました。

この制度は戸籍制度の役割も果たしていたのですが、
神職者や儒教を信仰する人たちにとって、
寺院で仏式の葬儀や埋葬を行うことは受け入れ難いものでした。

そこで明治時代に入ると、新政府によって、
神葬墓地(神道の墓地)がつくられるようになります。

さらに明治6年、政府が朱引内(都心部)の寺院での埋葬を禁止する布達を出すと、
今度は先祖代々からの東京市民(*)が不満の声を上げました。
政府は対応策として、寺院や神社に属さない公営墓地の開設に着手します。

こうして明治7年、日本で最初の公営墓地として誕生したのが、
雑司ヶ谷、染井、亀戸、谷中の墓地、
そして「青山墓地(青山霊園の前身)」です。

青山墓地はもともと神葬墓地でしたが、
このときに神式・仏式を問わず埋葬できる墓地になりました。
場所は当時江戸幕府の幕臣
・郡上(ぐじょう)藩青山家の屋敷跡だった
およそ26ヘクタールの広大な土地で、「青山」の地名の由来ともいわれた所でした。
(出典:港区探訪・青山墓地)

青山通りから根津美術館に向かって歩き、
美術館に近づくと、左手から黄色い声が聞こえてきます。
青南小学校です。
この小学校に俳人、中村草田男が読んだ俳句の句碑があります。
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「降る雪や明治は遠くなりにけり」――

 青南小学校正門内の校舎前庭にある、
俳人・中村草田男の句碑です。この句は昭和6(1931)年、
大学生だった草田男が訪問した際に詠んだもので、
草田男の代表句です。句碑も昭和52(1977)年、
青南小創立70周年記念として建立され、

除幕は草田男自身の手で行なわれています。

草田男は中国、東京、松山と引っ越しを繰り返しましたが、
小学校時代の大半は赤坂区青南尋常小学校
(のちの青南小学校)に通学しました。

その後、20年ぶりに母校を訪れ変わらぬたたずまいに安堵しますが、
雪が降り出すとともに校庭に外套(がいとう)を着た子どもが現れるのを見て、
着物に下駄だった自分のころとの隔たりを感じたのでした。
(出典:文学散歩・港区ゆかりの作家を訪ねて

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