2012年12月

今日は大みそかです。

過ぎた一年を振り返り、

明日からはじまる新しい一年に思いを馳せる日です。

 

過ぎ去った一年の日々を振り返り、

悲しい出来事は、邱永漢先生が

86歳でお亡くなりになったことです。

 

はじめて邱先生の文章を読むようになったのは

先生が55歳のときでしたから、

31年の間、先生の文章にふれることができました。

20世紀アジアが生んだ最高の賢者である

先生の文章にふれ、多くのことを学ぶことができ

幸せなことでした。

これからも先生の思想、行動の研究家として

活動することを自分に誓ったことでした。

 

一方、今年は楽しみの多い年でもありました。

ベトナムの首都、ハノイ、

カンボジアの首都、プノンペン、

ミャンマー最大の都市、ヤンゴン

タイの首都、バンコック

とインドネシア半島の都市を

訪ねることができました。

 

ベトナム、ハノイに2回行き、

成長を続ける会社を訪ねることができたことは

ありがたいことでした。

またカンボジア、プノンペンを訪ね、

王宮で平家物語に出てくる沙羅双樹の木や花を

見ることができたこと、

ラッフルズ・ホテルのレストランで

豪勢なフランス料理をいただいたことも

ありがたいことでした。

ミャンマー発展のシンボルである

ヤンゴンのティラワ工業団地予定地に触れたこと

も愉快なことでした。

 

また20数年ぶりにバンコックを訪れ

日本企業が集結する工業団地を見学できたこと、

そして、マンダリン・オリエンタルホテルの

素晴らしい内装やサービスにふれたのも

楽しいことでした。

 

こういう楽しみを享受できたのも

未来に目を向けて生きることの重要性を

教えていただいた邱先生のおかげです。

 

皆様、どうぞ、よいお年をお迎えください。

広い広いティラワ工業団地予定地

を見まわして、私は20年前

邱永漢先生に連れていってもらった。

中国・上海の浦東地区のことを思い出しました。

 

浦東地区はいまや

中国発展のシンボルとしての地位を確固としていますが、

20年前はただただ、だだっ広い更地が広がるばかりで

工場施設と言えば一つだけ寂しくと立っているだけでした。

 

ですので、当時、このゾーンが

中国のマンハッタンのような地区として

発展すると説明されても

果たしてそうでしょうかと、

首を傾げるばかりでした。

 

しかし、どうでしょう、

浦東は2年たち、3年たち

そして5年たち、さらに10年たち

いま20年たちましたが

浦東地区はめざましい発達を遂げ

文字通り中国発展のシンボル地区になっています。

 

こういう先例があります。

またティラワ経済特区については

水や電力など、インフラが整備されていない

など、克服すべき課題が多いと思います。

 

しかし、ミャンマーが開発のため

日本政府に開発を要請し、日本政府は

支援を約束しました。

日本の4大商社はじめ各業界の企業が

進出の構えを見せていますので、

この地域は、3年後あるいは

5年後には、経済開発特区として

一新するのではないかと期待をよせました。

ティラワ経済特区の一隅に降り立って

遠望すると岸壁に泊まっている大型の船が見える。

また岸壁が広く、そこには輸出用の木材とか

輸入されたたくさんの中古自動車が並べられている。

 

これがティラワ国際港

(Myanmar International Terminals Thilawa)です。

 

外国企業がミャンマーから土地を提供してもらい、
施設を建設して一定期間運営・管理し、投資を回収した後に、

ミャンマーに施設を委譲するBOT方式と呼ばれる

開発方式で建設が進められ、1996年に供用が開始された。

 

現在、ミャンマー港湾公社(MPA)が所有し、

民間セクターが運営しているが、このティラワ国際港に

隣接しているのが、ティラワ経済特別区

(Thilawa special economic zone)です。

 

多分、この経済特別区と名付けられたこの地域は

ティラワ国際港と同じ時期に開発が意図されたもので、

区画割がなされていますが、開発が進まず

草ぼうぼうの状態です。

 

しかい、昨年秋、ミャンマーの大統領が、

日本にこの地域の開発を委ねたいとの意向を表明し、

これを受けて日本側が検討しその結果、

ミャンマーの民主化を支援する観点からも、

全面協力する方針を固めた。

 

そして、今年3月、日本政府は

このティラワ港経済特別区について

最先端のインフラを備えた「スマートシティー」として

開発する方針を固め、ミャンマー側に伝えました。

 

この広大な特区はこれから日本による

開発を待っているのです。

アウンサン・スーチー邸を見た後、

私達はヤンゴン中心部にあるレストランで

昼食を食べました。

 

友人の中にはミャンマーでは

脂っこいものを食べる習慣があるので

大丈夫でしょうかと、心配される方もおられましたが、

私達が行ったレストランは

イギリスなどの駐在員が利用しているお店で

出てくる料理はみなおいしく

案ずるより産むがやすいという感じでした。

 

ガイドさんと一緒の食事で

互いの話しも弾みましたが、

食事の後は、いよいよ

ティラワ国際港

(Myanmar International Terminals Thilawa)

に隣接するティラワ経済特別区

(Thilawa special economic zone, )

の見学です。

 

ティラワ経済特別区は

ヤンゴンの南25kmに位置しており

バスで移動です。

 

この間、車窓からミャンマーの

さまざまな光景を楽しみましたが、

道路は繊維工場に向かった時と同様ガタゴトです。

 

余りに揺れるので、

私など、思わず、窓にかかるカーテンのひもに

つかまりぱなしでした。

 

そうこうするうちに

一本の線路が見え、

さらに進むとティラワ経済特別区に着きました。

 

バスから降り、延々と広がる

広大な土地を見まわたしました。

工業団地というと、たくさんの工場を想像しましが、

ここには今のところ、工場は一つもなく、

これからの開発を待っている工業団地予定地

といというところです。

ミャンマーと言えば

アウンサン・スーチー女史です。

 

私と一緒にミャンマーを訪ねた人のなかに

ミャンマーの大都市、ヤンゴン(旧ラングーン)

に来たからには、

一目、アウンサン・スーチー邸を見た

いと思う人がいて、繊維工場に向かう前、

ガイドさんに

工場を見学したあと、

アウンサン・スーチー邸に

寄ってほしいと頼みました。

 

私のスケジュールにそういう予定は

なかったのですが、ガイドさんが

「わかりました。工場を見た後よります」

と応じてくれました。

 

スーチーさんが自宅に軟禁されてたころ、

おりおり民衆に伝えたいメッセージを

玄関越しに送る光景はテレビや雑誌の写真で

見た人は多いと思います。

 

さてそのスーチーさんの邸宅は

どういうところにあるのか、

興味を持ちましたが、

高級住宅街と思われるなだらかな

丘の一角にアメリカ大使館にあり、

すぐ近くに、スーチーさんの邸宅がありました。

 

日本のアメリカ大使館も坂の上にあり、

近くにホテル・オークラがありますが、

位置からいうと、似たような場所にあると思いました。

もっとも、ミャンマーの場合は樹木の緑で一杯でしたが。

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