2009年03月

解説員の方のすすめで、
私たちは「渋沢栄一記念館」を出て、
玄関の裏手に出ました。

そこには平野が広がり、その向こうには
山の峰々が連なっています。
まん前の高い山が赤城山で、
その左手に見えるのが浅間山、
右手に見えるのが男体山(
日光の近くの山)だと解説員の方が
教えてくださいました。

そして目には見えませんが、
近くを利根川が流れていて、この辺は、
利根川の氾濫に何度も会い、
土壌は砂地だと教えられました。

そう聞いて、土がさらさらしていて
ネギなどの栽培が盛んであることが
飲み込めました。

帰宅してから、深谷市の地図を開くと
栄一翁が育った場所は、埼玉県の南の端で
近くを利根川が走り、その向こうは
群馬県であることを知りました。

さて、記念館からそこから、
渋沢栄一翁の生地「渋沢・中ノ家(なかんち)」
は歩いて10分ほど先にあると教えられました。

すぐに行こうとしたところ、解説員の方から
先に「鹿島神社」を訪ねるように言われ、
歩いて一分ほどの場所にあるこの神社に
行きました。

神社の境内の中に、朽ちた大きな欅の根元があり、
ここが昔、共同浴場で、栄一翁の母親が
らい患者の婦人の背中を流した場所であることが
わかりました。

その後、強い向かい風を受けながら栄一翁の
生地に向かいましたが、食事ができる店が
ありましたので、昼食をとりました。
お客は私たちだけではなかろうかと思って
入ると、地元では有名な店なのでしょうか、
大勢の人たちで賑わっていました。

お店の方のアドバイスに従って
注文したところ、出された料理の中心が
“煮ぼうとう”というこの地域の郷土料理で、
幅の広に麺と深谷ねぎ、それにニンジンなど
根菜類が入り、煮込まれていて、おいしかったです。
後で知ったことですが、栄一翁も好んで食された
とのことです。

「渋沢栄一記念館」の資料を展示している部屋で
解説員の方が示してくださった
「渋沢栄一翁関係史跡『論語の里』」という
A3サイズの紙には栄一翁ゆかりの史跡の地図と
簡単な説明文が書かれています。

地図の中に「渋沢栄一記念館」あり、
その前に「鹿島神社」があります。
そして「鹿島神社」の東側に「渋沢栄一生地」があり、
西側に「尾高藍香(惇忠)生家」があります。

解説員の方はこの地図にもとづいて
次の二つのことを教えって下さいました。

一つは「鹿島神社」ですが、その境内に
今では朽木(くちき)となっている
大きな欅(けやき)があり、その根元に
湧わいた水で共同風呂が設けられていました。

そこに村の婦人たちが集うのですが、
らい病患者の婦人がいて、村の婦人たちは
差別するのですが、栄一翁の母親は慈悲深い人で
水を汲んでその婦人の背を流しました。
栄一翁はこの母親の慈悲深い心を濃厚に受け継ぎ
後年、慈善事業に取り組むことになったのです。

二つは、この「鹿島神社」の東側にある
「渋沢栄一生地」から「尾高藍香(惇忠)生家」まで
1kmほどありますが、栄一翁は10歳の頃から
この道を歩き、10歳上の「尾高藍香(惇忠)」から
「論語」を学びました。

後年、栄一翁は数多くの会社を設立し、
日本の経済の礎(いしずえ)を築くわけですが、
栄一翁が心の拠り所にしたのは『論語』の教えで、
『論語と算盤』などの著書で
「道徳と経済は一見釣り合わないように見えるが、
実は両立するものであり、利益を求める経済の中にも
道徳が必要であり、商工業者がその考えに基づいて
経済活動を行うことが、国や公の利益にも繋がる」
と説き、この考えは「道徳経済合一論」(ないし
「経済道徳合一論」と言われているとのことです。

こうした説明を受けたのち、
私たちは「渋沢栄一記念館」の裏側に出て
北の方角に広がる連山を見ながら、この近くを
利根川が走っているということを教えていただきました。

深谷駅前を出発したバスが
15分くらい、走ったでしょうか、
「栄一記念館」入り口に着き、
私たちはそこで降りました。

バス停の後方に白亜の大きな建物が
見えます。それが「渋沢栄一記念館」です。
歩いて一分もしなうちに玄関に着きました。
ドアを開けて、入ると、職員の方たちが
迎えてくださいました。

「入場料はいくからですか?」
「ここは入場料はいりません。」
「そうですか。わかりました」
と職員の方と話をしましたら、
解説員という名札をつけた方が
さっと私たちの前に現れ各種の資料が
展示されている部屋に案内してくれました。

部屋に入ると、西郷隆盛や大久保利通、
それに福沢諭吉など交流のあった人たち
の大きな写真が飾られ、栄一翁が生きていた
時代に入り込んだような気持ちになりました。

解説員の方は、私たちを
栄一翁の年譜が書かれている大きな
表示板の前に案内し解説してくれました。
「NHKの大河ドラマ『篤姫』を
ご覧になられたと思います。
篤姫が生まれたのは天保6年(1836年)。
それから5年後の天保11年(1840年)に
栄一が生まれました。
篤姫が生きた時代がそのまま、
栄一が生きた時代であるわけです。

栄一が後年、活躍した場所は東京です。
が、栄一は24歳までこの地域で生活し、
ここで育ったことが、後年大きな事業を
なす基礎を作ったのです。

と言って、私たちに
「渋沢栄一翁関係史跡『論語の里』めぐり」
と題した地図を渡してくれました。

深谷駅前から出る循環バスに乗って
渋沢栄一記念館に向かいました。
私も妻も関西育ちで関東地方のことは不案内で、
深谷市は渋沢栄一翁が生まれた所という以外
何も知らないで足を踏み入れました。

ただ”フカヤ”という語感から
妻が「ここは“深谷ネギ”というネギの
産地なのではないでしょうか」と言いました。
“主婦の感覚”です。

そう言えば、“深谷ネギ”って
どこかで耳にしたことがあるような気がして
車窓から見える建物を見ていましたら
“深谷ネギ”と言う看板がかかっていました。
妻の予感は当たりでした。

さて、駅の周辺には建物がありましたが、
駅周辺を出ると、すぐ目に入るのは畑です。
ビニール栽培のビニール屋根が見えます。
またネギが植えられているのが目に入ります。

また綺麗な川も流れていて、
ここは農業、といっても米でなく、
畑中心の農業が主力のところだという
印象を受けました。

そうした農村の風景をかなりの時間
楽しませていただいた後、バスは家が
密集しているところに来ました。

すると道路に「尾高藍香(惇忠)生家」
(おだからんこう(じゅっちゅう)という
表示があり、バスはその前を通りました。

渋沢栄一の著書に『論語と算盤』がありますが、
尾高藍香(惇忠)と言う人は栄一翁が10歳の頃、
『論語』を教えた人で、後に明治維新後、
「官営富岡製紙場」の初代工場長を務めた人です。

その「尾高藍香(惇忠)生家」前を
バスが過ぎてすぐに着いたのが
『栄一記念館前』でした。
バス停から白亜の大きな建物が見えます。
それが渋沢栄一記念館です。

一昨日の3月20日、現代日本の基礎を築かれた
渋沢栄一翁の生地、深谷市(ふかやし)を訪ねました。

深谷市には栄一翁が生まれた家と
栄一翁の足跡を示す資料が展示している
渋沢栄一記念館があり、これらを訪ねるのが目的です。

私は妻を連れて、自宅に近いJR藤沢駅から
高崎行きの電車に乗りました。
この電車に乗ると渋谷、新宿、池袋、
を通ったあと、埼玉県に入って大宮、熊谷を通過し
約2時間ばかりで深谷に着きます。

車中、妻から「渋沢栄一という人は
はいつごろ生まれいつごろお亡くなりになった
方ですか」と聞かれました。

私は栄一翁に関する本を2冊持参していました。
一冊は佐野眞一さんの『渋沢家三代』、
もう一冊は栄一翁の著作『青淵百話』を
原著として、竹内均さんが解説する
『人生の急所を誤るな』です。

後者の本の竹内さんの解説を見ながら
「天保11年(1840年)に生まれ
昭和6年(1931年)に91歳で亡くなられた」
と答えました。
妻は明治維新は1868年だから
江戸時代の後半、つまり幕末に
生まれた人なんですねと言いました。

また妻は、「どういうことをされた人なですか」
と聞くので、いまのみずほ銀行の前身である
第一国立銀行銀行をつくり、そこを拠点に
王子製紙、東京海上火災保険、JR,日本遊船、
東京ガス、東洋紡績、東京ガス、帝国ホテル、
サッポロビールなど500以上の会社や
病院とか教育や国際関係の関係の施設を
600以上もつくられた方だ」と答えました。

そうこうするうちに、電車は深谷駅に着きました。
同じ車両から千葉県在住の青年が降りてきて
一緒に深谷駅の改札を出ました。

駅を出たところに観光案内所があります。
そこに入って聞くと、栄一翁の生家や
渋沢栄一記念館に行くにはバスかタクシーで
行く必要があり、ちょうどバスが出るので
それに乗ってくださいと言われ、市内を
循環するバスに乗りました。

↑このページのトップヘ