2009年03月

昨晩、邱永漢さんの85歳お誕生パーティーが
東京駅丸の内口の丸ビル36階、福臨門で
開かれ、私も出席させていただきました。

これまでは誕生パーティー会場は
行ったことがないレストランばかりでしたが、
今回の会場は友人たちと何度か食事しているところです。

また誕生パーティーに参加される方々で
面識いただく方が年々増えてきていまして、
これまでよりもゆったりした気持ちで
参加させていただきました。

開会は18時30分ですが、
ご挨拶させていただくべき方が年々
増えてきましたので18時に会場に入りました。

邱さんの台湾在住の二人の妹さんが来ておられ、
ご挨拶いたしました。このお二人とは、
これまで同じテーブルに座り、懇談させていただき、
写真を台湾にお送りしたこともあります。
昨年、台北市と台南市に行ってきましたと
申し上げ、喜んでいただきました。

また邱さんの奥様にもご挨拶し、
昔、中央公論社の暮らしの設計シリーズで
刊行された『邱家の中国家庭料理』を
友人たちも含め、愛用させていただいて
いますと申し上げました。

また邱さんのご長女、ご長男にも
お招きいただいたことのお礼を申し上げました。

このほか、親しくさせていただいている
“下丸子の社長さん”、原田一臣さん、
新潟のカバン屋さんの伊藤浩志さん、
上海の旧天地に進出されているROUROUの石河さん、
それに『中国にこれだけのビジネスチャンス』
の編集でお世話になったグラフ社社長の
山田のり子社長にもご挨拶しました。

そんななか、どうしてもご挨拶しなければならない方が
一人おられます。ユニクロ創業者の柳井正さんです。
これまではご挨拶していませんでしたが、今年は
この柳井さんの事業経営について友人たちと一緒に
勉強させていただいていますので、そのことをご報告し、
名刺を交換させていただきました。

挨拶回りに時間がかかりましたが、
そうこうするうちに85歳になられた邱さんの
誕生パーティー開会のスピーチが始まりました。

アメリカで起こった金融危機が
世界中に悪影響を与え、そのあおりを食って、
中国の会社の株も ベトナムの会社の株も
株価を大きく下げています。

ですので、株の顔はもう見たくないと
思っている人が多いと思います。
しかし、邱永漢さんがおっしゃっているではないですか、
「株は買いたくない気持ちになると時に買い、
売りたくなるような時に売るようにするのがいい」
のだと。

そういう意味では、株価が今のように
大きく下がっている今のような時は、
株価の動きに注目すべきだと私は考え、
日ごろは株の刻々の動きは見ていませんが、
最近は比較的よく株の動きをウオッチしています。

その結果、一つ気づいてることがあります。
それは中国の会社の株の多くが、
昨年10月末に底値をつけ、以降、
上昇に転じているということです。

この傾向は1月ごろから
気づいていたのですが、3月末の時点でも
、同じことが言えるので
“中国株に反転の兆しが見えている”
のではないかと感を深くしているところです。
一つ、皆さんもお持ちの株の動きを
お確かめください。

それに比べると、ベトナムの株の多くは
まだ下落を続けています。
ベトナムの会社は中国の会社に比べると
反発力が弱いのかなと思っています。

といっても、中国の株もまだまだ
地をはうようなレベルですすから
中国株もベトナムの株も今が買いのチャンス
という考えに変わりはありません。

郷里を捨て、京都に出奔した24歳の渋沢栄一は
京都で、一橋家家臣で平岡円四郎という人に出会い、
その人の推薦で、後に最後の将軍となる後の徳川慶喜、
一橋慶喜に仕えることになります。

ついその前まで、反幕府運動を企てていた青年が
徳川家につらなる人に仕えるというのも面白いことですが、
栄一は一橋家に仕えてからは、家政の改善などに
実力を発揮して、次第に認められ、主君の慶喜が
15代の将軍となるに伴い、幕臣となります。

そんな栄一にチャンスがめぐってきました。
栄一が27歳になった時のことですが、
徳川慶喜の実弟の徳川昭武に随行し
ナポレオン三世のパリ万国博会を見学し、
かたがた欧州諸国を訪れるこおtになるのです。
この旅を通して栄一は先進国の実情を見聞し
そ社会の内情に通ずることとなるわけです。

当時、日本の国内は激動のさなか。
徳川慶喜が大政奉還したことに伴い、
栄一らは新政府から帰国を命じられます。

知らなかった世界にふれて、栄一の頭は
すっかり変わったのだと思います。
帰国後、栄一は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、
静岡藩に出仕することを命じられますが、
フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、
仕官を断り慶応4年(1868年)1月に静岡で
「商法会所」を設立します。

こうして、渋沢栄一の人生は
紆余曲折を経ながら、成長、発展、
拡大の方向に向かいます。

そんな栄一の人生については
深谷市のホームページに記載されている
栄一関連の記事を読むことで勉強できます。

また『勇気堂々』(上・下)(城山三郎)、
『渋沢栄一 男の器量を磨く生き方』(渡部昇一)
『公益を実践した実業界の巨人 渋沢栄一を歩く』(田澤拓也)
『渋沢家三代』(佐野眞一)など栄一翁関連の本が多く
刊行されています。いま私はこれらの本を手元におき
読むついでいるところです。

大きな志をもって生き抜いた人の足跡にふれると
とても快適な気持ちになります。
栄一翁は後年、現在の東京都北区に、
迎賓館を建てますが、そこが現在
「渋沢栄一資料館」として公開されています。

4月25日に訪れることにしました。
ご関心をお持ちの方はどうぞ、ご一緒してください。

今回は、渋沢栄一翁の年譜をたどりながら
翁の生きてきた時代、そして若かりし頃の対応を
見てみたいと思います。

渋沢栄一は1840年(天保11年)に現在の
埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれました。
この年、アヘン戦争が勃発しています。

1847年( 弘化4年)7歳の時から
従兄の尾高惇忠から論語を中心に漢籍を学び始めます。   

また前回、伝えましたように
1854
年(安政1年年)14歳の時
家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励します。 

そしてめでたく、1858年(安政5年)18歳の時
尾高惇忠の妹で従妹のちよと結婚します。

さてこの年 日米修好通商条約が締結されます。
しかし、日本国内には国の門戸を開け、
外国と交流することに異を唱える人が多く、
外国との条約交渉を進める井伊直弼は、
攘夷(外国人を追い払う)を唱える人たちを
処刑する行動(安政の大獄)に出ます。

しかし、その井伊大老も1860年に
水戸の浪士たちにより暗殺されます(桜田門外の変)

こうした時代の中、若き一農夫の渋沢栄一も
攘夷すべしと考える一人で、論語の先生であった
尾高惇忠らと攘夷行動に出ることを企てます。

年譜には次のように記されています。
1863
年(文久3年)23 年、24歳の時
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てる。

しかし、栄一らの身内の中に、この計画を
取りやめるよう
必死にいさめる人がいて、
栄一らは止む無く計画を断念します。

そしてこの計画が明るみに出て、
獄につながれることを心配した栄一は
郷里を捨て、京都に出奔します。

ここから栄一の人生は大きく変わって行きます。

渋沢栄一翁の生地「渋沢・中ノ家(なかんち)」
を目指して歩く途中で、見かけた食べ物屋さんで
当地の郷土料理“煮ぼうとう”をいただきました。

いただいたあとで、お店の人に
「渋沢栄一さんのお生まれになったところを
訪ねたいのですが、どう行けばいいですか」と
伺うと、「隣です」と言われました。

確かに、食べ物屋さんを出て、隣の建物に
入ると、そこが「渋沢・中ノ家(なかんち)」でした。
ここにも、「渋沢栄一記念館」と同じように
解説してくださる方がおられ、家の玄関の前で、
幼かりし頃の渋沢栄一翁の話を伺いました。

江戸時代、深谷市北部の利根川沿いの村々では
藍をたくさん栽培し、栄一翁が生まれた「中の家」でも
藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。
さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、
作った藍玉を紺屋に販売していました。

栄一翁は勉学や剣術に励む一方、
家の仕事にも興味をもち、14歳のとき、
父の代わりに近くの村々へ
藍の買い付けに出かけました。

父親の買い付けに同行しながら覚えた
藍葉の鑑定を一人で行い、農家の人からも
一目を置かれました。
栄一翁、初めての商業体験でした。

また16歳の頃には、得意先の長野県や
群馬県、秩父地方の紺屋にも行きました。

栄一翁はなんかと良い藍を作ろうと考え
その一つの試みとして、相撲番付の形を利用して、
良い藍を栽培した農家を順番に、大関、関脇、小結…
とあてた番付表を作りました。

その番付表を拡大したものが、
「渋沢栄一記念館」表示されていますが、
大関に選ばれることは農家の名誉です。

こうした栄一翁の工夫もあって、
付近の村々の農家での藍作りが活発になりました。
後年、日本経済の礎(いしずえ)を築く
渋沢栄一翁が幼少期から青年期にかけ、
藍にかかわる商売体験を積んでいたことを
知り、面白いと思いました。

(このコラムの作成にあたり、
深谷市のホームページでの記載を
参考にさせていただきました。)

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