2008年09月

邱永漢さんが通った南門小学校の
校歌を紹介しましたので、ついでに
同じく邱さんが通った台北高等学校第一校歌を
紹介しましょう。
私なども旧制高校の歌としては、わずかに、
第一高等学校の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」とか
第三高等学校の「紅燃ゆる丘の花」とかを
知るのみですが、今回台湾を訪れたことで
台北高等学校の校歌を知ることになりました。

1
獅子頭山に 雲みだれ  
七星が嶺(ね)に霧まよふ
朝な夕なに 天(あめ)かける  
理想(おもい)を胸に 秘めつつも
駒の足掻(あがき)のたゆみなく  
業(わざ)にいそしむ学びの舎(や)

2
限りも知らに 奥ふかき  
文の林に 分け入りて
花摘む袂(たもと)薫ずれば  
若き学徒の 誇らひに
碧空(へきぞら)遠く嘯きて  
わがベガサスに 鞭あてむ

3
練武の場(にわ)に 下り立ちて
たぎる熱汗 しぼるとき
鉄の腕(かいな)に 骨なりて  
男の子のこころ 昂(おこ)るなり
つるぎ収めて かえるとき  
北斗の星の かげ清し

4
ああ純真の 意気を負ふ  
青春の日は くれやすく
一たび去って かへらぬを  
など君起ちて 舞はざるや
いざ手をとりて 歌はなむ  
生の歓喜を 高らかに

以上です。

邱永漢さんが通った台南・南門小学校のことを
調べると日本統治時代のいくつかの学校の校歌を
曲入りで紹介するサイトにであいました。

ここでは歌だけ紹介します。

1
千早ふる  神の宮居を 朝夕に
おろがみまつり  常盤なる
孔子(くし)の廟(たまや)を  目のあたり
うち仰ぎつつ  ものまねぶ
われらが幸を  思へひとびと

2
いざや友  日嗣の皇子(みこ)の かしこくも
わが学び舎に  いでましし
栄えある歴史  かえりみて
心を 磨き  身を鍛え
君が恵みに  応えまつらん

1番にある「孔子(くし)の廟(たまや)」とは
孔子廟のことでしょう。
実際、学校は孔子廟のまん前にありました。

また2番にある「日嗣(ひつぎ)の皇子」とは
「皇太子」のことで、後の昭和天皇が皇太子であった頃の
ことを指すものでしょう。

前に、邱さんが生まれる前年の大正12年に
その皇太子が、孔子廟を訪れたことを紹介しましたが
その際に、日本人子弟が通い、一部、
名士の台湾人子弟が通った「尋常小学校」
であったこの南門小学校も訪れられた
のかもしれません。

少し、寄り道をしましたが、
台南の「孔子廟」を訪れたあと、
私たちは邱永漢さんが通った元の「南門小学校」を
訪れることにしました。

その「南門小学校」の校舎が今は
「台南市立建興国民中学」に変わっています。

このことを事前に調べていて、
「孔子廟」を出た後、出会った大学生に聞くと、
「建興国民中学」の場所を教えてくれました。

「孔子廟」から道を超えたところに
「建興国民中学」がありました。

「建興国民中学」の校舎
はコンクリート作りで
戦後に建造されたように見えます。
ただ、校舎の中を通って、
運動場の方に行くと、
煉瓦積みの建物が見えます。

この煉瓦積みの建物は日本統治時代に
つくられた建物のように思われ、
私にはこの古いレンガ造りの校舎が
「南門小学校」の校舎のように見えました。

運動場の向こうには、「南門」の跡が見えます。
台南の町も,昔は城壁に囲まれ、、
町への出入りは東西南北の門からしか許されず。
門では厳重なチェックが行われていました。

中でも南門は城の正面に位置した
ため一番立派な門として建てられた。
今はその門と一部の城壁が残されています。

その「府城南門公園」を訪れることはできませでしたが、
邱さんが通った小学校は、この南門近くにありました。

私たちはその学校の校舎跡を訪ね、
邱さんが植民地の子供として差別を受けながらも、
才気煥発の少年として勉学に勤しんだ
往時を思い浮かべました。

大正12年4月、昭和天皇が皇太子時代に
台湾を行啓し、21日の項に「歩兵第二連隊営庭での閲兵」
の記事がありますが、これが私などの興味をひくと
書きました。

というのは、邱永漢さんの
『わが青春の台湾 わが青春の香港』の中には
次のような記述があるからです。

「当時、台南市には(台湾)歩兵第二連隊があって、
(父は)そこの兵隊が食べる野菜の類を納入していた。
(中略)この仕事によって私の一家は世のサラリーマンたちとは
比べ物にならないほど豊かな生活を送らせてもらうことができた。

ところで、歩兵第二連隊はどこにあったのでしょうか。
インターネットで調べると、
(1) 台湾の台北に歩兵第一連隊が、
台南に歩兵第二連隊が置かれていたこと、
(2)今の成功大学の大成館と旧文学院に
当時の日本軍歩兵第二連隊の駐屯地であたこと
この二つのことがわかりました。

この成功大学というのは、
台湾高速(新幹線)の台湾駅から
台南市内に向かうバスで見た大学で
付属病院がけんさつされていて、ずいぶん立派な
校舎を持つ大学だなあとと思ったところです。

ついでにこの成功大学についも調べたら、
この大学は国立の名門大学で、
「北は台大、南は成大」と言われているとのこと。

そして日本統治時代の1931年に設立された
台南高等工業学校(臺灣總督府臺南高等工業學校)
の後を追って、つくられた学校で
台南を中心に活躍した鄭成功にちなんで
「成功」と名づけられたことを知りました。

調べると、色々なころが連鎖的に
わかることが面白いところです。

大正12年4月に日本の皇太子(のちの昭和天皇)が
台湾を行啓したことを調べると、緒方武蔵編『台湾大年表』
(1938年12月第4版、台北印刷株式会社)に
その時の行啓の日程を記載されていることを
河原功さんがを紹介しています。
85年前の記事ですが、興味深いと感じましたので
以下に抜粋します。

17日 台湾神社参拝
台湾総督府、植物園内生産品展覧会、中央研究所農業部行啓
宿泊所(台湾総督官邸)

18日 中央研究所、師範学校、同付属小学校、太平公学校、軍司令部、
高等法院、第一中学校内教育品展覧会、医学専門学校行啓
宿泊所(台湾総督官邸)での原住民舞踏鑑賞

19日 新竹州庁、新竹尋常高等小学校、台中州庁、台中第一中学校行啓
宿泊所(台中知事官邸)で市民提灯行列、花火を観覧

20日 台南州庁、孔子廟、台南師範学校、第一公学校、第一中学校行啓
宿泊所(台南知事官邸)で台湾武技、奏楽、提灯行列を観覧

21日 安平、台湾製塩会社塩田、養殖試験場、
歩兵第二連隊営庭での閲兵、高雄州庁、第一尋常高等小学校行啓
高雄港内の巡覧、宿泊所(貴賓館)で提灯行列等を観覧

22日 台湾製糖会社屏東製糖所行啓
高雄山(これを機に29日に寿山と改称)を登山
宿泊所(貴賓館)から湾内の松明行列等を観覧

23日 お召し艦「金剛」で澎湖島へ、要港部行啓
基隆へ回航

24日 基隆着
クルベー浜フランス戦没将士を弔い、築港工事巡覧、重砲兵大隊行啓
台北に帰還して博物館、円山運動場(全島学校連合大運動会)へ行啓

25日 草山及び北投温泉に清遊、途中基隆河に数千羽の家鴨放飼を観覧

26日 歩兵第一連隊営庭での閲兵、専売局、第一高等女学校、武徳殿、
第三高等女学校、円山運動場(陸上競技)へ行啓

抜粋は以上で終わりです。
上記の記述の中に21日の項に、
「歩兵第二連隊営庭での閲兵」の記事があり、
この記録が私の興味をひきました。

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