2008年09月

私たちがホテルに戻ると、
ホテルのガラスには板が打ちつけられ
ドアーの足元には土嚢(どのう)のようなものが
積まれていました。

洪水などの時、堤防などに積まれる袋のことです。
とっさに、台風が押し寄せつつあるのだ
ということにきづました。
実際、入り口の前には臨時の掲示板が
立てられ、台風の直近の情報が伝えたえています。

台湾であちこちの見学は終わりましたが、
飛行機がストップすると予定が狂い困ります。
台風の動向が気になります。
そこで、部屋に入るとテレビをつけて、
台風の近況を伝える報道を見ました。

日本でも台風がくる時は
テレビの各局が詳しく直近の情報を伝えますが、
台湾の各局は日本のテレビ局以上に
熱心に情報を伝えているように感じました。

在来線の電車ストップ。
私たちが台南から乗ってきた新幹線もストップ。
翌日は学校がお休み。会社もお休み。
そんな情報が伝えられます

そのような報道を見ていて、
私は台湾が日本以上に台風に襲われることの多い、
台風銀座であることに気づきました。

邱永漢さんの『香港発 娘への手紙』に
「航海の神様、媽祖は女性です」と題した章があり、
台風のため、台湾海峡を無事公開することが
難事であったことが書かれていたことを思い出しました。

結果的には、一晩寝ると、風は穏やかになっていて、
私も友人も、予定通り飛行機に乗ることができました。
次に台湾に来るときは、台風情報によく注意することが
必要だなと感じたことでした。

私たちを乗せた台湾新幹線の電車は
約2時間で高鉄台北駅に着きました。
高鉄台北駅は在来の台北駅の地下になり、
電車を降りて、地上に出れば、そのまま
台北の中心街に出ます。

その後の行動は中山北路一段152号BIの
「青葉」に行って、夕食をとることです。
「青葉」は「邱永漢のすすめるうまい店④」
(邱永漢手帖)の「台湾」のコーナーに
記載されてる店です。
台北駅に着いたら、中山北路には
地下通路があることがわかりました。

その通路に沿ってしばらく歩くと、
中山北路に出ました。
中山北路というのは「永漢書局」の入っている
邱大楼や「天厨菜館」が入っている
第二邱大楼がある場所です。

地図を手がかりにして歩きました。
先を歩く私は通り過ぎてしまいましたが、
私の後を歩いた友人が表通りの道から
ちょっと入った路地に「青葉」のサインを
見つけてくれました。

これだこれだと私たちは
「青葉」に入りました。
「青葉」について邱さんは
「アオバという名で長く日本人に親しまれてきた。
芋粥、シジミの醤油漬け、イカ団子など
いま東京でハヤっている台湾小皿料理の元祖」
とコメントされています。

私たちは邱さんのこのコメントを参考にして
料理を注文しました。
ここの料理も美味しく、みなで、この日の行動を
ふり返りながら、台湾小皿料理をたくさんいただきました。
これであっという間の台湾の旅が終わりました。

私たちを乗せた台湾の新幹線、台湾高速鉄道の電車が
高鉄台中駅にとまりました。
台中は台湾では台北、高雄につぐ三番目に大きな都市です。

台湾高速鉄道は在来の鉄道線からかなり離れたところを
走っていて、多分、台中でも市の中心部は在来の鉄道線の
周辺に広がっていると思いますが、高鉄台中駅の周辺も
かなり開発されているように感じました。

さて、台中といえば、私などには
邱さんが苦渋をなめた砂糖密貿易船の失敗話
が思い出されます。

大東亜戦争が終わり、台湾再建のため
東大の大学院をやめて、台湾に帰ってからのことです、
祖国再建の夢をもって、帰郷したものの
共産党に破れて、台湾に逃げ込んできた
蒋介石一派の悪政によって、活動の場がなく、
邱さんもすっかり失望します。

そんな邱さんが、高校時代の友人の兄で
貿易をしている人が、友人と組んで
砂糖船を出すことになり、出資者を募っている
と言う話を聞きます。

ただ、正式の貿易が行われているわけではなく、
密貿易です。が日本は砂糖が欠乏しているので、
うまく日本に運べば、砂糖が10倍に売れるという話です。、

台湾にいることにすかり失望していた邱さんは
この話に飛びつき、自分は密輸船に乗ったつもりになり、
台南に帰って母親に無心をし、もらったお金を
台中の船主に払います。

さて、船は空船の状態で台中港を出発し、
新竹県のある漁村でかくしてあった砂糖入りの麻包を、
筏に積んで運び、船に積みかえます。

ところが、中途まで積んだところで突然、
大波が打ちよせ、船が浅瀬に乗り上げてしまいます。
こうして、邱さんの日本への密航と儲け話が
水泡に帰していしまうと言う話です。

このれは邱さんの『失敗の中にノウハウあり』とか
『わが青春の台湾 わが青春の香港』に書かれている実話です。

「台中」の地名からこの失敗話を思い出すのは
自分くらいしかいないのではないかと思いましたが、
一緒した友人は私に負けないくらいの邱著作愛好者がいます。

その友人は車中で他の友人とだべていましたが、
私が「台中ですと」と言いましたら、友人は
「ああ、砂糖船の難破事件に関係したところでうね」
と答えました。

仮に「邱永漢検定」なるものがあれば、
これは特級クラスの反応でしょうね。

私たちは高鉄台南駅から
台湾の新幹線に乗って、
高鉄台北駅に向かいました、
朝乗ってきたコースの戻りです。

朝、来るときは、ただただ
外の風景を眺めるばかりでした。
そこで、帰りは、台湾全島の地図を片手に、
窓から見る場所を確かめながら、
外の風景を楽しむようにしました。

右手(東側)には山並みが続き、
左手(西側)は台湾海峡に連なります。
この間に豊かな農業地帯が広がり、
電車はこの地帯を貫通する形で進みます。

高鉄台南駅の次の駅が高鉄嘉義駅ですが
この駅を通過して、しばらくたったころ、、
東西に走るローカル電車が眼下に見えました。
パノラマを見ているように美しい光景です。

地図でたしかめ、「集集線」(しゅしゅうせん)
という鉄道であることを知りました。
そして、この鉄道を見た後だと思いますが、
この電車に平行する形で山から
海の方向に流れる川に気づきました。

地図を見たら、、
「濁水渓」(だくすいけい)と書かれていました。
これがあの「濁水渓」かと、私は少なからず興奮しました。

「濁水渓」というのは邱永漢さんが
執筆した直木賞候補作の小説のタイトルに
使われた、台湾で一番長い川なのです。

私の本棚には①オリジナル版の『濁水渓』
②第一回の邱永漢自選集で発行された
『濁水渓・密入国者の手記』
③直木賞受賞作「香港」と合体で発行された
中公文庫晩の『香港・濁水渓』
④三回目の全集・邱永漢ベストセラーズとして発行された
『香港・濁水渓』など、各様に出版された『濁水渓』本があります。

私はこれらの本で何度も小説『濁水渓』を読んでいます。
これがあの「濁水渓」なのか。
「濁水渓」はこの辺を流れている川なのか
私は無言でつぶやきながら、
食い入るようにして、眼下の川を眺めました。

さて、邱永漢さんが通った『南門小学校』の
校舎のあとを見ると、夕暮れ時になりました。
もうあちこち、動き回ることはできません。
そこで、タクシーの運転手さんに「西門市場」を
車の窓から見、その上で、台南駅まで
送っていただくようお願いしました。
「西門市場」とは邱永漢さんのご両親が
働いておられたところです。

「私の父はかなり女にもてたように思う。
それに父はろくに学校も行っていなかったし、
また格式ある家の生まれでもなかったが、
自分で商売をやる才能には恵まれていて、
若い時から台南市の西門市場で商売をしていた。
当時、台南市には(台湾)歩兵第二連隊があって、
そこの兵隊が食べる野菜の類いを納入していた。
この仕事を父が自分で見つけてきたのか、
それとも母の内助の功によって手に入れたのか、
ききそびれてしまったが、とにかくこの仕事によって
私の一家は世のサラリーマンたちとは
比べ物にならないほど豊かな生活を
送らせてもらうことができた。
母は同じ西門市場にある牛肉屋の長女だった。」
《『わが青春の台湾 わが青春の香港』》

台南を訪れる前に調べたところでは
かつては賑わっていた西門市場も
いまはそうとうさびれ、再開発の対象に
なっているとのことでしたが、
実際、車の窓から覗いた限りでも
この市場は活気がありませんでした。

でも、邱さんのご両親が働いておられた場所を
見ることができ、とても満足でした。
そのあと、私たちは台南駅前で降りました。

おりよく、台湾高速(台湾の新幹線)の台南駅行きの
バスの乗り、しばらく待ったあとで、台北に
向かう電車に乗りました。

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