2006年08月

今回、香港、、深圳、珠海を訪れることになった
キッカケは、セミナーに参加された方から、
香港の銀行で口座を設定する機会をつくって
くれないかと頼まれたことです。

他にも同じような希望をお持ちの方が
いらっしゃるようだし、セミナーに参加して
下さる方々のご要望に応じるのが自分の
務めだと思いました。

幸い、昨年1月、香港でセミナーを開いた時
参加いただき、以来、親しくさせていただいている
友人が数人いまして、そのうちの1人に
お願いしたところ、しっかり受け止めてくださいました。

おかげで、この方面のことは不案内な
私が日本から参加いただいた人たちを、
香港1の銀行である香港上海銀行(HSBC)の
本店にご案内することができるようになったのです。

土曜日の朝、湾チャイから
チンチン電車に乗って
獅子像のある本店前に集まると、
香港の友人が迎えてくださいました。

そして友人から2人の同僚をご紹介
いただきました。同僚は当地生まれで、
日本語も英語も堪能な女性たちです。

私は感激し、友人と2人の同僚の方に
深くお礼し、日本からの心ばかりの
お土産をお渡ししました。

私が感激したのはそれに留まるものでは
ありません、友人の同僚の女性が日ごろ
仕事で接しておられるHSBCの支店の方
3名がご同行してくださったのです。
私の感激が更に高まったことは
いうまでもありません。

おかげで、格式の高い銀行での
口座設定がうまく進むことをひたすら
願い、緊張していた私はかなり
気が休まりした。

9時の開門とともに私たちは、
支店から駆けつけて下さった方々の
お導きで、5階のプレミアと書かれた
フロアーに案内いただき、3人ずつ
口座設定の作業を進めていただくことに
なりました。

去る8月25日から8月27日の間、
友人の皆さんと一緒に香港を訪れ、
香港を見て回るほか、深圳、珠海にも
足を延ばし、華南地区の経済の一端に
ふれてきました。

具体的にどういうことをしてきたかと言いますと
1つは、香港の銀行の口座を持つことを
希望される方を、銀行までご案内し、
口座設定の手続きを行っていただきました。

2つは香港島を一周し、香港の東西南北を
グルッと周り、香港に実際に親しむともに
夜はビクトリアピークに登り、香港の夜景を
堪能していただきました。

3つは香港から深圳に渡り、深圳の全貌を
俯瞰したあと、香港と深圳で活躍している
友人に体験談を話していただいただきました。

4つは、深圳から高速バスに乗って
長安、虎門大橋、中山、珠海と珠江デルタ地域を
グルッとまわり、道中、工場団地群に見入りました。
そして珠海からフェリーに乗って香港に戻りました。

5つは、香港と深圳で活躍している
友人たちに美味しいレストランを選んでいただき、
料理をいただくと共に参加いただいた友人の皆さんに
懇談を楽しみ、そし深めていただきました。

明日から今回の経済視察と交流の旅で
体験してきたことをご報告させていただきます。

前回、中国で『開発区』が続々
誕生する流れを見ましたが、
邱さんの本を再読すると
改革開放の動きが中国で広がる
様子について次のように書かれています。

「鄧小平は『11年前に経済特区をつくるとき
上海をその中に入れることは間違いだったなあ』
身辺にもらした。

12年前には、台湾と香港の企業家たちの
力を借りるのがやっとだったし、
はたして成功するできるかどうかも
定かでなかったのだから、成功が
確実視されるいまからでも遅くはない。

はたして上海では
浦東がプログラムに乗るようになり
大連、天津、青島など沿岸地区に
経済特区と実質的に余り代わらない
開発区が設置されるようになった。

それを見ると、内陸部も手を拱いてはおられない。
ただでさえ所得格差に悩んでいる内陸の官僚たちは
『沿海海域ばかり優遇してオレたちを見捨てるつもりか』
と北京にねじ込んだ。

全国平等を建前にしている北京よしては
グウの音も出ないことだから
急遽、揚子江沿岸の成都や重慶や武漢も
同じ扱いを受けることになり、
経済発展はタテとヨコの二つの線で
推進されるようになった。
というより全国スローガンに
なったのである。」
(『日本人はアジアの蚊帳の外』)

中国で一連の「改革開放政策」が
とられていく様子が活写されていて
中国で起こっていることを掴むうえで
とても参考になります。

中国で訪ねてみたい土地を調べると、
例えば深圳や珠海には「経済特区」
大連や青島には「経済技術開発区」、
などいろいろ特定の呼称がでてきます。

これらはどういう時間的な経過を経て
決められたのでしょうか、
年表風にメモし、頭を整理したくなります。

メモ風で恐縮ですが、インターネットで
調べた結果を紹介させていただます。

○1979年:広東省の深圳、珠海、汕頭と
福建省のアモイ、広東省から分離した海南省に
経済特区を設置。

○1984年:「経済特区」に続く対外開放政策として、
上海などに代表される14の沿海都市を
「経済技術開発区」に指定。

注1:「14の沿岸都市」とは
大連、秦皇島、天津、烟台、青島、連雲港、南通、
上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海市

注2:「経済技術開発区」とは外資と技術の導入を目的に、
「経済特区」並みの優遇措置をとるもの。
「経済特区」は管理線で国内と明確に隔離され、
対内的に閉鎖されているのに対し、
「経済技術開発区」は国内にも開放されている。

○1985年以降:長江デルタ、珠江デルタ、ミンナン・トライアングル、
山東半島、遼東半島、河北省、広西を「経済開放区」に指定。

○1990年:上海浦東新区の開発と開放を決定。

○1992年以降:辺境都市や内陸すべての省会(省人民政府所在地)
と自治区首府を開放。

○一連の年に15箇所の保税区、
49箇所の国家級经経済技術開発区と
53箇所のハイテク技術産業開発区を設置。

以上ですが、ここで「開放」と言われている言葉は
門戸を広く開くというほどの意味でしょうが、
中国は資本も技術も欠乏していましたので、
まずは外国資本に対し優遇政策をとることで
呼び込みを図ることが「開放」の主たる狙いでしょう。

こうして外資を活用し、資本や技術の吸収を図り、
その結果、輸出を拡大し、先端技術を習得し
企業経営の体質や国の経済体制を強固なものとする
目的から、というのがこれらの一連の施策が
講じられたのだと思います。

経済特区、深圳の誕生と発展が、
大きな刺激剤になって周辺の街々に
新しい工業都市が生まれ
広東省一帯が中国を代表する1つの工業地域に
変貌していきます。

そうした様子を邱永漢さんが
『これであなたも中国通』(平成16年)で
次のように描いておられます。

「経済特区がわが世の春を謳うようになると、
隣接する市町村も指を銜(くわ)えて
見ているだけではすまなくなった。

特区の垣根の外にあっても、
立地条件にそんなに変わりがあるわけではない。

特区が外地からの出稼ぎ人を締め出しにかかると、
特区に入りそこなった出稼ぎたちは特区の
垣根の外で半分の賃金でも喜んで働くことを
承知する。それでも四川省や雲南省の田舎で
職にあぶれているよりずっとましだからである。

かくて深圳とすぐお隣の東莞市(とうかんし)や
番寓市(ばんぐうし)や恵州市(けいしゅうし)では
『深圳の半分の賃金でいくらでも人を集められます』
『深圳は電力の供給を保障しますと宣伝しているけれども、
保障しているのは1日8時間であり、
それに対して我々のところは16時間保障します』
と台湾の会社にまで市長たちから
手紙が舞い込んだこともあった。

そうした努力の甲斐があって、やがて
周辺都市も特区に負けないだけの香港資本や
台湾資本を集めるようになり、広東省の
工業地帯はどこまで特区で、どこからが特区でないか
という区分がつかないほどの一大工業地区になって
しまった。いまこれらの地域には日本企業も
大挙して進出しており、いずれも働き手の大半が
広東省の人ではないので、工場敷地の半分が
宿舎になっている。」
(『これであなたも中国通』平成16年)

この原稿は、日本の自宅で4日前に書いたものですが、
実は私と友人たちが昨日、香港で合流し、
今日は、朝早く香港からバスで深圳を訪れ、
同地で香港やシンセンで活躍している友人たちから
体験談を話していただいたあと
深圳の隣の街々を見て、それから
経済特区の1つである珠海まで
走ることにしています。

深圳やその近郊の街を見て、
私や友人たちやどういう印象を持ったか
後日、報告させていただきます。

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