2005年08月

日本では昭和30年代から40年代にかけて、
海を埋め新鋭の製鉄所がつくられていました。
そのため、鉄鋼会社には土木や建築の技術者が
大勢採用され製鉄所づくりに従事していました。

しかし、50年代になると、製鉄所づくりが終わり、
土木や建築の技術やノウハウを活かすことを目的として
新規の事業がはじめられることになりました。

海のなかや砂漠の上にパイプラインを引いたり
ビルの鉄骨工事や工場の建設を行う事業が
鉄鋼会社の新しい事業として動き出したのです。

私が40歳を節目にして働くことになった職場は、
そうした経緯でつくられた新規事業部門で
工場の建設や小さなオフィスの建設にかかわる
事業を行っていました。

その部門の調整課長として
働くことになったのですが、
設立されてから10年くらい経ちながら、
ずっと赤字状態が続いていて
職場の雰囲気は暗く、なんとなく
沈滞ムードが漂っていました。

「嫌なところに来たなあ、
自分なりに考え、行動したことが
裏目にでたかなあ」と思ったりしました。
しかし、私の上司であった人がすばらしい人で
ライバル会社の取り組みを参考にして
再建策を提示し、紆余曲折をへながらも、
その部門は長年の赤字を脱し
黒字に転換することになりました。

おかげで赤字状態が続いていた部門が
黒字を出せるようにするには
どういう療法が必要で、その療法を実施する場合、
当事者はどう反応するか、といったことの
一部始終を体験することができました。

経験したことのないところで働くと、
一から仕事を覚える必要がありますが、
その仕事をやらなければ、知りえなかったことを
体験することになり、人間の幅が広がります。

40歳近くなってきたころのことです。
邱永漢さんが書いた『サラリーマン出門』
(文庫本は『邱永漢サラリーマン出門』)
を読んだことがキッカケで、
これから自分はどういうことを
やろうとしているのか問いかけることになり、
自分の本音が浮かびあがってきました。

これから先、どういう仕事に
従事することになるのか
予測がつかないけれど、
「どんな環境に置かれても、
状況を打開でき人間になりたい」、
「できることなら、年をとっても
仕事を続けたい」
そんな思いが、心の底から
わいてきました。

そして、そうした思いを実現するには、
世の中で吹いている風にじかにふれ
新しい事業を企画したり、
軌道に乗せていくといった
体験をつむことが必要だと
考えるようになりました。

そういう考えが浮かんでくれば
あとは行動するだけです。
事業感覚が養えるような部署で
仕事をしたいと、周囲にはたらきかけ
その結果、損益が問われる
ある事業部で働くことになりました。

自分の将来に思いを寄せることが
その後の自分のあり方を探求し、
新しい方向に向かって走り出すことに
つながっていきました。

私が30代半ばであったころ(昭和54年ごろ)、
企業としての人事施策の指針をまとめる中で、
「これからは、会社で働く人たちに対し、
自助努力を発揮して、生活設計していくよう
働きかける必要がある」と書き、
このことがきっかけになって、
自分自身の今後のあり方について
考えるようになりました。

そのころ、私は鉄鋼メーカーの社員で、
入社してから、製鉄所や本社で
総務とか労務の仕事を担当していました。
総務や労務の仕事は会社の中では
重要な仕事とされていましたが、
私自身にとっては慣れ親しんでいる分、
新鮮味を感じなくなっていました。

ですが、これから先、
どうしていったらいいのか、
というと、その先が見えてきません。
たいへんじれったく、悩ましい思いの
日々が続きました。
そのころ、私は邱永漢さんの本に
親しむようになり、ずっと前に書かれていた
『サラリーマン出門』
(文庫本は『邱永漢サラリーマン出門』)
という本を読みました。

この本はサラリーマンを卒業して
独立、自営の生活をはじめよう
と考える人に向けて書かれた本です。
私は会社一筋で生きていこうと考えていて、
この本にはなじめないものを感じました。
ですが、この本には一つの明確な生き方が
紹介されているわけで、“独立、自営の生活”
の生き方がなじめないというなら、
「自分は一体どういうことを
したいと考えているのか」と、
自分に問いかけるようなりました。

そういう問いかけを自分に向かって
発するようになるまで
ずいぶん時間がかかってしまいましたが、
『サラリーマン出門』を読んだおかげで
自問自答が行われるようになり、
だんだん自分の本音が現れてきました。
自分と向きあうには根気が要る、
というのが当時をふりかえっての
私の感慨です。

私が自分の将来について
考えるようになったのは
35,6歳のころ、いま62歳ですから
四半世紀前のことになります。

第二次オイルショックに襲われ
“減量経営”言う言葉が
盛んに使われたころのことです。
それまでの高度成長にかげりが見え、
それまでの生産の7割か8割でも
黒字が出るように経営の
体質を変えようというのが、
“減量経営”の意味でした。

そのころ、私は鉄鋼メーカー本社で
労務関係の仕事をしており、
たまたま、私の上司が日経連に
(現在の日本経団連)に設けられた
人事、処遇施策について考える
委員会の委員長になり、
私はその委員会の提言書を
まとめることになりました。

当時、会社の定年は55歳、
他方公的年金の支給時期は60歳で
国はその間の溝を埋めるため、
民間企業に定年を60歳にすることを
要請していました。

そうしたことを背景に
民間企業の人事、給与、教育関係の
課長達が、今後の施策について議論され、
私はそれらを受けて提言書を書きました。

その中で書いたことの一つが、
会社が社員に対して福利厚生や
退職金支給の面でできることに
限度があるので、これからは
会社で働く人に対して、
自助努力を発揮し、生活設計するよう
働きかける必要があるということでした。

たまたまの役回りで、
そういうことを書いたのですが、
そんなえらそうなことを書いたからには
自分自身、実践しなければいけない、
と考えるようになりました。

私はこの10年ばかりの間
法人向けのマネジメント研修の
講師をしています。
そして2年ほど前から
個人に向けて人生設計や理財設計について
セミナーをおこなっています。

勉強したり、これは大事だ
と思うことを人に教えることが
わりに好きで、こういう仕事は
自分に向いていて、
勉強への意欲を失わず
また健康を保持できていけば
これからも続けられると考えています。

私がこういう仕事に
従事するようになったのは
多くの方々からのご支援のお陰ですが
35,6歳の頃のころ、自分の将来に思いを寄せ
あれこれ考え、行動したことが
関係しています。

当時、私は大きな会社に勤め、
12年ばかりたっていましたが、
あることがきっかけになって、
サラリーマンなら誰もが迎える
「定年」について考えることになりました。

定年を迎えるようになったら
会社とお別れし、仕事ともサヨナラ
しなければなりません。
自分にもいずれ、そういう時期が来る。
でも、定年とともに仕事がなくなる
というのは困ると思いました。

どうすれば、そういうことにならいないで
すむのだろう、そう考え行動してきたことが
ささやかながらも、仕事を続けることに
なっていると考えています。

そうした意味から
自分の将来に目を向け
あれこれ考えつつ、行動していくことは
良いことだと考えています。

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