2005年08月

2年の間、数回にわたって
人生設計セミナーをひらき、
そのつど、申し込みをいただきました。

申し込みのメールの中で
しばしばいただくのが
「今回、思い切って、セミナーに
参加することにしました」
という言葉です。

セミナーに参加するか、
しないか、熟慮したのち、
「よし参加することにしよう」
と決めて、申し込みのメールを
送ってくださったことが伝わり、
こちらも敬虔な気持ちになります。

私たちは、人に向かって
「ああしたらどうなの」
「こうすればいいんじゃないの」
といったことを言います。
ところが、自分のこととなったら、
なかなかそうはいきません。
「そう言われても、
言われるようには動けないよ」
と抗弁するもう一人の自分がいるのです。

ですから、自分に向かって、
「ああしろ、こうしろ」ということは
難しいことのなのです。

でも、自分の将来を考える
ということは、自分に対して
「こうしようよ」と言い聞かせることに
ほかなりません。

そういう難しいことに、
取り組むのだという決意が
「思い切って参加することにしました」
という言葉になるのだと思います。

人生設計セミナーを初めて
ひらいたのは2年前のことです。

自分の人生をよりよいもにしたい、
そうした考えをお持ちになられ方々に
集まっていただき、勉強会をはじめました。

参加いただいた方々は緊張気味でしたが、
それ以上に私自身が緊張していました。
できるだけ場の雰囲気を和らげるように努め、
そのあとで、参加いただいた方々に
順次質問し、意見を交わすことで、
参加いただいた方が、
ご自身が向かう方向や
次の一手を考えていただくよう
にしていきました。

以降、このような形でのセミナーを、
数回にわたって実施し、
一つの勉強のスタイルが
できたように思っています。

ところで、セミナーを主宰している私が
皆さんをを前にして行うことは
参加いただく方の思考や行動が
促進されるよう質問をしていくことです。
また答えをいただき、それに応じて
参考になりそうなことを話すことです。

とすれば、顔と顔をつきあわせると
いうことをしなくても、メールを
交換するような形で、ご自分の人生プランを
立てていただくことがと考えられます。

実は、これまでも数人の方々とは、
メールで交流する形で、ご自身の人生プランを
立ていただきました。

そこで、これからは
メールを交換する形で
人生設計を勉強いただくことも
はじめることにしました。

ご関心をお持ちになられた方々は
どうぞ、ご参加ください。

前にも書きましように、
私は35,6歳の頃、
自分の将来に思いをはせたとき
50歳からの姿が思い描けませんでした。

ところがその50歳のなった頃、
長く勤めてきた会社の外に出、
マネジメント研修の講師の仕事に
従事するようになり、この仕事が
10年くらいつづき、最近では
講師ぶりも板についてきたと感じています。

こうしていま62歳になりましたが、
自分が向上心を持ち、
健康を維持していけば、
この仕事は、今後も続けられ、
”仕事とともにある生活”を
楽しむことができると思います。

さて、こうした生活を楽しめているのは
30代の半ばに、将来に思いをはせ
年をとっても仕事を続けたいと念じ、
一歩を踏み出したことが大きいと
考えています。

ですから、いま
自分の将来に不安を感じたり、
あるいは野望を持っている人には
今後の人生の設計図を作って、
行動していくのがいいですよ
言いたくなります。

こういう私のアドバイスに
「なるほど」と思われる方は
すぐにも、ご自身で
人生の設計書をまとめる
作業をはじめてください。

また、自分一人だと、
一人よがりになる恐れがある。
相手になってくれる人がいた方が
いいと思われる方は、
9月10日と11日の両日
東京で人生設計セミナーを
ひらきますので、ご利用ください。

スケジュールや参加方法は
「戸田ゼミスケジュール」の欄に
書いていますので、ご覧いただき、
お申し込みください。

35,6歳の頃、自分の将来を思い浮かべて
はっきり覚えていることがあります。
50歳以降になったときの自分が
さっぱり思い描けなかったことです。

「こういう人生を生きたい」とか
「自分の夢をあねたいとか」といったものを
まったくを持っていなかったことが
一番の原因だと思いますが、
人のあとについて生きていこう
と考えていた自分のような者でも、
50歳からあとの人生がどうなるのか
さっぱりわかりませんでした。

ところが、43歳のとき、
新規事業を考える仕事につき、
あまり人がいないところで、
人を集める事業を考え、
失敗し、その失敗に教えられて
一つの事業を世に送ることができました。

その後、テーマ・パークのPRを担当し
パークに人を集めるには、
ホテルが必要というので、
親会社の本社に舞い戻って、
ホテルの誘致に奔走することになりました。

懸案であったホテルの誘致が実り、
気がついたら49歳になっていました。
精神的にはきついなあと思うばかりの
40代でしたが、自分なりに頭を絞り、
試行錯誤しながら右に行ったり
左に行ったりするなかで、
鍛えられたのでしょう、
少し逞しくなったようです。

誘致したホテルの建設がはじまった
平成5年、私は会社の外に出て、
第二の人生を託す仕事を考えたいと
会社の人事部に申し出ました。

邱永漢さんの作品のエッセンス本を
まとめさせていただくようになったのも
この頃のことですが、
「会社の外に出て仕事をしたい」
と申し出ていたことが功を奏し、
これまで働いてきた会社とは
まったく関係のないところで
マネジメント研修の講師の仕事を
はじめることになりました。

思えば昔、50歳になったときの姿が
まったく思い描けなかった自分が、
その年になって、会社の外に飛び出して
新しい仕事に従事するようになったというのは
わがことながら、興味深いと思っています。

40歳を節目に新しい事業部門で
働くようになってから数年たち、
43歳になっていた頃、
年代でいうと昭和61年の末のことですが、
福岡県にある八幡製鉄所から呼び出され
新しい事業を考え出す仕事に
従事するようになりました。

当地への赴任は3度目ですが
今度の職場はその名も “新規事業推進部”です。
当地では “本事務所”という名前で
呼ばれていた木造の事務所の4階に
30人近い人が集められ、新しい仕事づくりに
取り組むことになりました。

日本の通貨、“円”が固定相場制から
フロート制に移ったのは昭和46年のことですが、
以降、“円”はどんどん強くなり、
メーカーでは輸出して得られるお金が
円換算ではその分、減ってしまうという
困った現象が起こっていました。

こうした“円高”に伴うショック現象に
対応するため、鉄づくりも
新鋭製鉄所で集中的に行うほかなく、
八幡製鉄所のように旧い製鉄所では
生産が振るわず、工場が解体され、
あちこちに遊休地ができていました。

地域に与える影響も大きいです。
そこで“新規事業推進部”がもうけられ、
私はその一員として働くことになったのです。
新しい事業づくりに取り組む、
これは私が願っていたことです。
面白いと思いました。
ただ、ひさしぶりに八幡製鉄所を
訪れると製鉄所の中も、周辺の街も
すっかりさびれ、こういう所で
新しい事業を考えるといっても
ちょっと無理なんじゃないかなと思いました。

でも、何か新しい事業を考え出して欲しい
というメッセージを受けていて、
ボーとしてはおれません。
どんな仕事が考えられるかに
頭を絞ることになりました。

その時点ではまったく
気がつきませんでしたが、
この仕事に従事したことが
そのあと新しい進路方向に向かって
走り出すことにつながっていきます。

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