東京オリンピックが開催されたのは
昭和39年のことですが、その年、41歳であった
高島陽さんは、大商証券の取締役を辞任しました。
高島さんはその後、当時のことを振り返り、
次のように書いておられます。
「私は昭和34年から39年までの5年間、
資本金40億円の会社の取締役をつとめたことがあるが、
一生のうちで、あの時が一番不安だった。
何しろ病気で会社を休もうと、
少しくらい仕事をなまけようと、
毎月25日には必ずかねをくれるのだから、
とても不安だった。
『これでは今におれはだめになっちゃいんじゃないか。
おれは一生こんな生活から抜けられないんじゃないか』
と、心配でたまらなかった。
昭和39年の11月に会社をやめることができた時、
ホッとしたものだ。
常に不安を排除する。
これは当然のことだろう。
むしろ、大切な本能の一つと思う。
といって、安定を維持しようと考えるのは得策ではない。
もともとこの世に不安定はあっても、
安定は存在しないからだ。
(もし、安定があったら、神様も失業してしまう。
この点、神様は抜け目ない)。
商売するにも、株式也投資をするにも、
ここのところをよく頭に入れておくことだ。
これが出来たら、七分通り成功したものと
言ってよいだろう。
少なくとも、百%他人や自分自身を信用して
失敗するようなことは避けられる。
とにかく、どうせ、存在しない安定を求める暇があったら、
少しでも、自分の周囲にある不安を除くことが賢明だと思う。」
(『1億総素人時代』)
私なども不安定な要素は極力除こうとします。
しかし、世の中は変動極まりないものですから
この不安定なるものといつも
付き合っていかなければなりません。
そう思う人間にとって、上に述べられた高島さんの考えは
生きていく上で大きな指針になるように思います。
昭和39年のことですが、その年、41歳であった
高島陽さんは、大商証券の取締役を辞任しました。
高島さんはその後、当時のことを振り返り、
次のように書いておられます。
「私は昭和34年から39年までの5年間、
資本金40億円の会社の取締役をつとめたことがあるが、
一生のうちで、あの時が一番不安だった。
何しろ病気で会社を休もうと、
少しくらい仕事をなまけようと、
毎月25日には必ずかねをくれるのだから、
とても不安だった。
『これでは今におれはだめになっちゃいんじゃないか。
おれは一生こんな生活から抜けられないんじゃないか』
と、心配でたまらなかった。
昭和39年の11月に会社をやめることができた時、
ホッとしたものだ。
常に不安を排除する。
これは当然のことだろう。
むしろ、大切な本能の一つと思う。
といって、安定を維持しようと考えるのは得策ではない。
もともとこの世に不安定はあっても、
安定は存在しないからだ。
(もし、安定があったら、神様も失業してしまう。
この点、神様は抜け目ない)。
商売するにも、株式也投資をするにも、
ここのところをよく頭に入れておくことだ。
これが出来たら、七分通り成功したものと
言ってよいだろう。
少なくとも、百%他人や自分自身を信用して
失敗するようなことは避けられる。
とにかく、どうせ、存在しない安定を求める暇があったら、
少しでも、自分の周囲にある不安を除くことが賢明だと思う。」
(『1億総素人時代』)
私なども不安定な要素は極力除こうとします。
しかし、世の中は変動極まりないものですから
この不安定なるものといつも
付き合っていかなければなりません。
そう思う人間にとって、上に述べられた高島さんの考えは
生きていく上で大きな指針になるように思います。