今回は、渋沢栄一翁の年譜をたどりながら
翁の生きてきた時代、そして若かりし頃の対応を
見てみたいと思います。
渋沢栄一は1840年(天保11年)に現在の
埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれました。
この年、アヘン戦争が勃発しています。
1847年( 弘化4年)7歳の時から
従兄の尾高惇忠から論語を中心に漢籍を学び始めます。
また前回、伝えましたように
1854年(安政1年年)14歳の時
家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励します。
そしてめでたく、1858年(安政5年)18歳の時
尾高惇忠の妹で従妹のちよと結婚します。
さてこの年 日米修好通商条約が締結されます。
しかし、日本国内には国の門戸を開け、
外国と交流することに異を唱える人が多く、
外国との条約交渉を進める井伊直弼は、
攘夷(外国人を追い払う)を唱える人たちを
処刑する行動(安政の大獄)に出ます。
しかし、その井伊大老も1860年に
水戸の浪士たちにより暗殺されます(桜田門外の変)。
こうした時代の中、若き一農夫の渋沢栄一も
攘夷すべしと考える一人で、論語の先生であった
尾高惇忠らと攘夷行動に出ることを企てます。
年譜には次のように記されています。
1863年(文久3年)23 年、24歳の時
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てる。
しかし、栄一らの身内の中に、この計画を
取りやめるよう必死にいさめる人がいて、
栄一らは止む無く計画を断念します。
そしてこの計画が明るみに出て、
獄につながれることを心配した栄一は
郷里を捨て、京都に出奔します。
ここから栄一の人生は大きく変わって行きます。