第18回日経アジア賞を受賞した
FPT創業者、チュオン・ザー・ビン会長兼CEO氏についての
2013年5月4日/日本経済新聞記載の記事にもとづき、
またFPT社を訪れたときに聞いた話も参考にして、
同氏の履歴を次のようにまとめてみました。

(1)1956年、ベトナム中部ダナン市生まれ。

ベトナム戦争が始まった幼少期は、貧しさと背中合わせだった。
空腹を満たすために「友人とカエルを見つけては焼いて食べていた」

(2)中学1年生の時、教師に連れられて、
ベトナムに輸入されたばかりの旧ソ連製コンピューター「ミンスク―32」を見学。
「部屋全体を占めるほど巨大なコンピューターに興奮し、忘れられなくなった」。
この出来事が人生に大きな影響を与えることになる。

 (3)小中学生のころから成績優秀だった。
ベトナム全土から生徒が選抜される
チューバンアン高校に数学専攻で入学を許された。

当時の夢は物理学者で「アインシュタインがヒーローだった」。
74年に旧ソ連のモスクワ大学に国費留学。大学院を修了した後、
88年に12人の仲間とFPTを創業した。当初は国営企業だったが、
2002年に民営化を果たす。

(4)起業の動機は生活苦からの脱却だった。
ベトナム戦争終結から10年余。
社会主義経済は行き詰まり、食料不足が続いていた。

研究者としての月給は約5ドル。
とても家族を養うことはできない。

「何とか家族の生活を良くしたい」。
何をしようか考えていた時にミンスク―32の記憶がよみがえってきた。
コンピューターやIT技術をビジネスにできないか。
旧ソ連に留学した当時の仲間に声をかけた。 

 (5)創業当時は食料事情を改善しようと
食品加工技術の開発を目指したが芽が出なかった。
そこでイタリア製パソコンの輸入販売などをしながら
ソフトウエア開発の技術を磨いた。

当時のベトナムでは航空会社の
予約管理や銀行の出納記録も手書きが一般的。

これをデジタル化するソフトなどを開発し、実績を伸ばした。

(6)飛躍のきっかけとなったのは96年のインド視察。
「ベトナム人にだってできるはずだ」。
IT企業のタタ・コンサルタンシーサービシズやインフォシスの職場を見学し、
生来の負けん気に火がついた。開発コストの安さを武器に、
米マイクロソフトなど海外企業から受注。
今はベトナムを含め世界13カ国に拠点を持つ。

 (7)とりわけ日本企業とは結びつきが深い。
日立、NTT、キヤノンなど大手企業を中心に約60社から開発を受託。
ソフトウエア開発の売上高の50%超が日本企業からの案件だ。
今やベトナムはインドを抜き、日本企業のオフショア開発先の2位。
同1位の中国で賃金高騰や政情リスクが高まるなか、
FPTへの期待はさらに高まっている。

(8)手本は日本企業。「三菱や住友など何百年も続く大企業から経営哲学を学んだ」。
日本の経営者とも親交が深く、
三菱商事の小島順彦会長や日産自動車のカルロス・ゴーン社長とは
毎年のように面会する。課題は後継者づくり。

(9)09年4月に後継者を指名して最高経営責任者(CEO)から一時退いたが、
12年9月に復帰。
「全事業に精通している人間がおらず、社員に対する知名度も低かった」
と失敗を認める。

(10)改めて4年計画で後継者集団の育成を進めているが、
会長職は続ける意向。

「世界はさらにデジタル化し、
人と人、人と企業のコミュニケーションが密になる。

様々なチャンスも生まれる」。